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◯それは自己紹介のつもりだった。
その子は、目が小さくて鼻が小さくてだが鼻の穴はでかかった。第一印象は、全体的にお餅。可愛いお餅だった。
「いだ、ともあきくん」
名札の平仮名が読めたくらいで、得意満面だ。
「ただ、なぎさ」
「ピンポーン、正解です。多田と井田って、そっくりじゃん? うち、ともあきくんとなら結婚してあげてもいいよ。苗字、ちょっとしか変わらないから」
なぎさのことは最初から最後まで「憎からず」と思っていた。憎からずとは結構良いものだ。大好きよりも良いと思う。
「結婚してあげてもいい」と言われたその瞬間に結婚が約束されたみたいに、俺達は付き合い始めた。保育園から高校までずっと一緒。高校に上がってすぐに通い婚のようになり、やがてそのままなぎさの家に住み着いた。
夏休み、うちの家族旅行になぎさを誘った。行き先は砂浜のある海。夜、二人で民宿を抜け出した。満天の星空の下、浜辺を走り、はしゃぎ疲れると、砂の上に倒れ込んだ。初めて身体を許してもらった。俺の肩越しに見える星が綺麗だとかいう、なぎさの素朴な言葉を聴くだけで良くて、あの頃は人生がシンプルで良かったなと思う。
身体を許してもらった代わりに……いや、婚約者には自分の全てを知ってもらわないとフェアじゃないとか、そんな青臭いことを思って、俺は自分の秘密をなぎさに話した。
二学期が始まってすぐ。いつものように、自分の家じゃなくなぎさの家に帰ったら、俺の荷物がスポーツバッグ一つにまとまっていた。それは「出てけ」って意味だと、すぐに悟った。
「おやっさん、俺、何かした?」
「いや、何もしてねぇよ」
なぎさの親父さんは言った。ただ、俺がΩだということだけが問題なんだと。
口答えも何もしないで、なぎさを手離せてよかった。「憎からず」だったから、そうできた……。
すぐ側に人の温もりを感じる。誰だろう……誓二さん? 違うな。なんだ、知玄か。
手を伸ばし、浅黒い頬に触れる。引き締まっていてすべすべな肌。眉毛が濃くて睫毛が長くて、鼻筋がしっかり通っている。羨ましいくらい、男前な顔つきだ。起きてる時はアホヅラばっかしてるけど、目を閉じていれば案外カッコいい、俺の番。
番になったのに、こいつは俺の大事なことを知らない。俺が教えないからだ。大人になるとダメだな。ズル賢くなっちゃって、あんな青臭いこと、言わない……言えない……。
まだ潮の香りがする。パシャ、パシャと音がする……けど、波の音じゃねぇな。何だ?
「何、やってんの?」
お袋がビクッと肩を震わせた。手には携帯。撮ってたのか。
「えへ。だって、赤ちゃんの頃みたいで可愛かったんだもん」
「“もん”じゃねぇよ」
横で寝てた知玄も、うーんと呻いて起きた。お袋は俺達の前に携帯を突き出した。画面には、だらしないポーズで爆睡中の俺と、俺の胸に顔を載せ、土下座するように突っ伏して眠る知玄がいた。
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