●兄の手料理。

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●兄の手料理。

 玄関に入ると、野菜の煮えるいい匂い。タマネギとじゃがいも。今日はカレーかな? でもにんじんの匂いがしないな。さてはハヤシライス? と、わくわくしながら階段を中程まで昇ったところで酒と醤油の匂いが漂ってきて、がっかりする。なんだぁ、肉じゃがか。ところが、 「おかえり」 「えーっ!?」  台所に立っていたのは兄だった。 「お母さんは」 「ママ友新年会、だってよ」  そういえば今朝、母はそんなことを言っていた。  兄は野菜と肉の上に蓋をするように、細かく切った白滝をどっさり載せた。兄が料理するところなど、知玄は初めて見た。普段は母の手伝いでもやらないのに。 「あとは火が通って、じゃがいもの表面がちょっと煮崩れるのを待つだけ」  兄は寒そうに腕を組んだ。褞袍(どてら)を着込んでいるのに素足なのは、身体を温め過ぎると咳が出るかららしい。年明けからこっち、兄はあまり調子がよくなさそうだ。酒と煙草を止めたら却って具合が悪くなるなど。長いこと不摂生が常態だったから、急に健康的生活に切り替えたら身体がびっくりしたんだろうと、兄は言う。 「お兄さん、料理なんて出来たんですね」 「まぁな」  どこで覚えてきたのだろう。学校の調理実習? 兄がエプロンと三角巾を身につけて真面目に実習していたら、面白すぎる。 「高校時代、誓二さんとこに居候してた時に覚えた」 「えぇっ」  それは聞き捨てならない! よりによってあの、なんか大人で凄すぎてムカつく人のために、兄が料理をしていたなんて。 「つっても見様見真似だ。アケちゃんが作ってんのを見て覚えた。味付けは醤油と酒だけなんだが、それだけで美味いんだ。素材の味が活きるというか」 「へぇ」  アケちゃん……暁美という名の女性で、誓二さんの婚約者だった人だ。知玄は名前を聞いたことがあるだけで、直接面識はない。数年前に交通事故で亡くなったと聞いた。  暁美さんが作るのを見て覚えた、ということは、誓二さんが婚約者と同棲していたところに兄は転がり込んでいたということだ。ずいぶん豪胆なことをするなぁと呆れてしまう。と同時にホッとする。それならきっと、兄は誓二さんとは何も無かったのだろう。  夕飯は知玄と兄の二人きりだ。ご飯と味噌汁と肉じゃがと沢庵という、簡素なメニュー。だが、 「お兄さん、食べないんですか」  兄の前に置いてあるのは肉じゃがの鉢だけで、しかも一向に箸をつける様子がない。 「もう少し冷めたら食う」  変なの……。だがきっと、まだ調子が戻らないんだろうと思い直し、知玄は兄お手製の肉じゃがを頬張った。タマネギが沢山入っているので、砂糖も味醂も入っていないのに甘い。じゃがいもがほくほくとして美味かった。  ふと顔を上げると、兄はやっと肉じゃがに箸をつけ始めたところだった。 『え?』  今まで気付かなかった。兄の首筋の痣が大きくなっている。血のように赤い。まるで椿が花開いたようだ。
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