執事と主人とその家族

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「なんだもう来てたのか。久しぶりだなあ」  そう言って兄は佐和が抱いている娘を覗き込んだ。さすがに疲れたのか、周りの音も気にせずに眠っている。そろそろ寝かせなければならないだろうと思った矢先、立ち上がった妻が娘を抱き上げた。 「いまのうちに寝かせちゃおうかな。私も眠くって。佐和ちゃん明日ね」 「はいはーい」  二人が出ていくのを見送って、兄は妻と入れ違いに佐和の隣にどかりと座った。 「明日でかけるのか」 「うん。お義姉さんと樹里ちゃんと女子会」 「いいな、女子会。俺は明日もオッサン会だ」  兄の心底嫌そうな様子に佐和が吹き出した。  明日も仕事だというのにわざわざ実家に寄ってくれたらしい兄の、そういうマメなところは私も見習うべきだろう。とはいえその気遣いも家族と仕事にしか働かないからこそ、いまだに独身ではあるようだが。 「土曜だっていうのに会議なのか」 「臨時の役員会だ。だから父さんも母さんも明日はいないぞ」 「日本人は本当にワーカホリックだな」  大学時代から海外にいたせいですっかり向こうの生活習慣に慣れてしまうと、とても日本で働ける気がしなかった。とにかくプライベート優先で、仕事が残っていようがみんなさっさと帰ってしまう。郷に入っては郷に従えだ。 「お兄ちゃんは休みの日まで仕事してるから彼女と続かないんだよ」 「俺だってオッサンと顔つき合わせてるより女子会がいいよ」 「お兄ちゃんは結構な優良物件なのにね」 「誰か不動産情報誌に載せといてくれよ」 「でもあれかな、長男とかはマイナスなのかな」 「かわいい妹と弟が付いてくるんだぞ」 「それはあんまり嬉しくないんじゃない?」  かわいい妹と弟は恋人からしたら嬉しくないのか、と私まで残念に思った。すると今度はかわいいと言われた弟の方が言った。 「それを言ってしまうところがマイナスなんじゃないかな」 「でも俺はあえて言うよ。だって可愛いだろ、なあ?」 「私もそう思うよ」  兄から同意を求めるように目を向けられて、私は頷いた。 「大体、俺が一番大事なのは家族だから、それを共有できない相手とは一緒にいられない」 「恋人より家族を選ばれると女子としては複雑だよ」 「同じ価値観を共有できないと結婚はできない。俺は結婚できないような相手とは付き合わない」  これはなかなか結婚できないわけだと思うがその反面、この家の長男として生きてきた彼にとってそれは仕方のないところもあるのかも知れないと、さっさと学生結婚してしまった私は幾度目かの罪悪感を覚えた。 「重いなあ。お兄ちゃんと付き合うのは大変だね。私は絶対無理だな」 「でも兄さんのそういうところを僕はとても恰好いいと思うけれど」  私たちは驚いて一斉に弟に注目した。当の本人はいつも通りの顔でグラスを口に運んでいる。 「急にどうしたの」 「だって結婚できるかどうかっていうのは、家族になれるかどうかということでしょう?だったら兄さんにとっての家族と恋人は同じことなのでは」  元々、家族を大事にするというのは我が家の家風でもある。家にいる使用人や社員達も含め、内に入れた者を守るということを大切にしてきたのだ。 「それに相手の大事なものも同じように大事にしてくれる兄さんをとても格好いいと思うし、僕は尊敬している」 「和泉がデレた……!」 「なんだか今日はえらく素直だなあ」  いつもにはないストレートな褒め言葉に兄が感動している横で、佐和が不審な顔をしている。確かに、弟は臆面もなく考えを口にするタイプではないし、聞かれなければ話さない。そう思えば、先ほどの私に対しての言葉も、普段聞き役に回りがちな彼にしては珍しいことだ。 「なんだか様子がおかしいな。悪いものでも食べたんじゃないの?」 「姉さんにもらったお菓子は食べたけれど」 「それってケンカ売ってる?」  小さな頃から仲の良い二人の昔と変わらないやり取りを見ていた私は、佐和の言葉にはたと閃くものがあった。自分の飲んでいたグラスを手に取る。飲んでみるとお茶だった。 「もしかして和泉、酔ってないか?」  私が飲んでいたのは手土産に向こうから持ってきたジンだったが、今手元に残っているのはお茶の入ったグラスだ。もしかして隣に座っている和泉が飲んでいたそれと入れ違ったのではないだろうか。だとすれば執事がグラスを下げていった理由に合点がいく。 「酔ってないと思うけど」  本人は涼しい顔をしているが、それでも怪しいものだ。前にも間違えてお酒を飲んでしまったことがあったけれど、顔色は変わらない割に足取りが怪しかった。訝しむ私を見て、兄が和泉のグラスを取って口に運ぶ。 「これは水だと思うが」 「さっき西嶋さんがグラスを取り替えていったんだ。和泉、ちょっと立ち上がってごらん」 「別に大丈夫だよ」  そう言ってその場で立ち上がるが、確かにふらついたりはしていない。立ちがったままどうだという顔で見下ろしてくる。しかしそのことがすでにいつもの彼とは違っている。 「大丈夫そうではあるけれど……」 「そうでしょう」 「私はそろそろ寝ようかな。明日、和泉も来る?女子会だけど」 「試験が近いから」 「真面目だねえ」  二人が話しているのを聞きながら、やはり杞憂だっただろうかと目を離した瞬間だった。がたんと大きな音がして私は素早くそちらを振り返った。 「大丈夫ですか」  見れば壁に手をついた和泉が、執事に抱きかかえられていた。椅子の足に躓いたようで、寸でのところで背の低いチェストに頭をぶつけそうになっているのを、脇の下に腕を入れて背中を支えている。いつの間に部屋に入ってきたのかと驚いていると、重さを感じていなさそうな軽々とした動作で抱き起こした。 「間違えて正嗣様のお酒を飲んでいらしたので心配していたのですが」 「やっぱり」 「様子がいつもと違っておりましたから」  私の言葉に執事が首肯する。それにしてもよく気がついたなと密かに感心した。 「味が違うでしょうに全然気がつかなかったの?」 「お茶だと思ってた」 「ジンを烏龍茶で割るとさっぱりして美味しいんだ」 「立ち上がったせいで余計にアルコールが回ったんだろ。部屋まで連れてくから掴まれ」 「大丈夫だよ」  兄の差し出した手をやんわり断ってドアに向かうがやはり足元が覚束無い。そうこうしているうちに膝が折れて、慌てて手を差し出そうとした時だった。 「無理をなさらないでください」  危うく崩折れた弟の身体を、執事が抱きとめていた。軽々と受け止められた和泉は、自分が倒れ込んでしまったことに驚いたように固まっていたが、しばらくして顔をあげた。ようやく自分を受け止めている人物に気がついたように執事を見あげる。 「お前は……」 「はい」  呆れ顔の佐和がいつもの事だとでも言うように肩をすくめて部屋を出て行った。兄は手を差し出そうとした姿勢のまま固まっている。  弟は改めて何かに気づいたとでもいうように、自分を抱きかかえたままの相手の顔を至近距離で見つめている。 「和泉様?」 「本当にきれいな顔をしているな」  当家の執事は非常に優秀で、何事においても淀みなくその職務を全うする。そんな彼が多分、思考を停止させるのを見るのは初めてのことだった。 「僕が知る中で一番」  抱きかかえられたままだった体をようやく離すと、覚束無い足取りでドアに手を掛ける。そして振り返ると、なんで来ないのだとばかりに不服そうな顔で言った。 「寝る前にホットミルクが欲しい」 「……承知致しました」  有能な執事の顔に戻った彼は、こちらに一礼すると和泉の背中を追って部屋を出て行った。兄はまだ手を差し伸べた姿勢のまま動きを止めている。 「……うちの弟は面食いなのかな」 「そういうのじゃないだろそういうのじゃ」  悔しそうな顔の兄を横目に、こういう酔い方は何というのだろうと考えている。普段聞き役に回りがちな弟の本音を聞こうと思うなら酔わせればいいということだ。そして、 「うちの執事にあんな顔させるのは弟だけなんだろうな」  いつも怜悧な執事のあんな顔は初めて見た。年に数回しか会わない私には、彼らの関係は図りかねた。今の弟に聞いたなら、もしかしたら答えが返ってくるのかもしれないけれど、なんだかそれはまだ知りたくないような気がして、私はあくびをしながら妻と娘が眠る部屋へと向かった。
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