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事故に行き遭った話
「ちょっと事故に行き遭ってしまって」
少し困ったような声を聞きながら、山口啓太は途方に暮れて天を仰いだ。冬晴れの空は快晴。それでも交差点をビルの合間から吹き込む風は冷たく、春はまだ遠い。早く暖かくならないかなと少し現実逃避している山口を少し硬い声が呼び戻した。
「怪我はしていない……本当に」
電話の相手が心配しているのか、少年はもう一度怪我はないと断言した。制服のズボンが少し汚れているけれど破れてはいないし、先ほど話している間も特にどこかが痛んでいる様子はなかった。
「あの本屋の少し先にある交差点を少し過ぎたところにいる。まだ警察が来なくて」
つられて自分の車越しに交差点の向こうをひょいと見たが、パトカーの姿はない。その拍子に少年の隣で心許ない顔をした老婦人と目が合って、ネクタイを緩めながら愛想笑いをした。
さて、山口がこの少年と老婦人と三人でパトカーを待っているのは何を隠そう、彼の不注意による接触事故のせいだった。信号が青になって左折しようとしたとき、ちょうど携帯電話に着信があった。ぱっと見たディスプレイにケンカ中の恋人の名前が表示されていて、少し焦ったのだ。結局電話には出られずじまいだ。
「スピードは出ていなかったし、少し鞄に当たった程度で転びもしなかった」
少年が電話の相手に説明している通り、停止していたところから左折しようとしたのでスピードは出ていなかった。ぱっと顔を上げると横断歩道に老婦人を庇うように立つ少年がいて、慌ててハンドルを切った。反対車線に車がいなかったのは幸いとしか言いようがない。すぐに路肩に車を止めて無事を確認したが、少年が老婦人を庇ってくれたおかげで二人とも怪我はなく、山口は心底ほっとした。
「ほんと助かった……」
「本当にねえ。今の若い方でもこんなきちんとした子がいるのね。感心したわ」
「そうですね」
山口の独り言に老婦人が答える。
電話で話している間も背筋をピンと伸ばした少年は、話してみると受け答えも実にしっかりしていて落ち着いていた。どことなく品よく感じるのも有名な私立高校の制服を着ているせいだけではないだろう。
「ああ、今は運転手の方と、一緒にいたご婦人と警察が来るのを待っているところで、もう少しかかると思うけれど」
やることもなくて少年のことを観察していた山口だったが、近くを通ったトラックの轟音に我に返りあまりに不躾だったと慌てて目を逸らした。
「でも近くには車を止められる場所もないから……そこで待っていてくれ。いや、でも」
どうやら待ち合わせをしていた電話の相手は近くにいるらしく、来る来ないで揉めているようだった。山口は最初、親だろうかとも思ったが相手に対して少年が「お前」と言っていたので一体どんな相手だろうと想像した。
「……分かった」
不承不承といった顔の少年は通話を切ると、微かに息を吐いてからこちらを振り返った。
「大丈夫ですか」
感情の読みにくい顔で見つめられて山口はなぜかどぎまぎする。隣で膝をさすっていた老婦人が「大丈夫ですよ」と答えて、自分に言ったのではなかったのかと少し照れた。
「あなたが庇ってくださったおかげで少しも怪我などありません。本当にありがとう」
「ほんとすんません、俺の不注意で」
「怪我がなかったんだものいいじゃないの」
「車に傷などはつきませんでしたか」
「分かんないけど多分ないよ。あったとしても俺の過失だから気にしないでマジで」
誰にも何もなかったことを思えば、傷がつくくらい大したことではなかった。誰も傷つけなくて良かったと今さらながら足が震えた。
「それにしてもなかなか来ないわねえお巡りさん」
「時間とか大丈夫ですか」
「私はちょっと散歩に出ただけだったから。あなたはどこかに行くところだったのじゃないの?」
「俺はまあ別に」
口を濁しながら山口はネクタイをしゅるりと外した。事故に遭う前に向かっていたのは、とある建設会社だった。実のところこれから面接だったのだが、とても間に合いそうにないと先ほど断りの電話を入れていた。転職先を探して面接に出向いていたがどこも空振り、恋人とはケンカ中と調子の悪いところに今回の事故だった。
「例え親の死に目だろうと逃げませんよ」
「親の死に目だったらいいのでは」
「いやあダメだろう」
「お巡りさんに聞いてみたらいいのじゃない?」
「話がややこしくなるからやめときます」
にっこりと笑った老婦人はおっとりと可愛らしい雰囲気でバスのベンチに上品に座っている。山口の知っている老人とはえらくイメージが違っていた。
「君の方は大丈夫なのか。巻き込んじゃった俺が言うのもなんだけど、待ち合わせしてたんだろ?」
「家に帰るところでしたので、迎えに来てくれていたのですが」
「ごめん俺のせいで」
「気にしないでください。特に用事があったわけでもありませんし」
山口にとって今日はここ最近で一番最低の日だったが、相手がこの少年と老婦人だったことは唯一の救いだった。少年の控えめながら親切な態度がささくれだった心を宥める。同じように感じたものか、老婦人が眩しそうに少年を見上げた。
「うちの孫もこんないい子だといいのに。最近はちっとも家に来ないくせに、たまに顔を出したと思ったら小遣いをくれだなんて」
「それはそれは」
「嫌になるったらもう。何が一番嫌って、はいはいどうぞとあげちゃう自分が一番嫌なのだけれど」
「それは仕方ないんじゃないですかね。……電話の感じだとお迎えはもう来てるんじゃないのか」
老婦人を宥めておいて、山口は少年に尋ねた。先ほど聞こえていた会話では、ここまで迎えにくるような雰囲気だった。
「そのようです。待っていてくれと言ったのですが」
「お父さんか、お母さん?」
「いえ、家の使用人です」
「し、使用人?」
なんとも時代錯誤な言葉に山口は戸惑うが、確かに少年の通う高校は金持ちの子息が大勢いるという学校で、高級車が迎えの列に並ぶと噂されている。使用人のいるような家であるなら物腰が上品なのも確かに頷けるというもの。家政婦のようなものだろうかと、壁越しにこっそり様子を窺う中年女性を想像した。それはそれで高級車を運転していると違和感しかないけれど。
「こちらに向かっていると言っていたのでそろそろ来ると思うのですが」
「心配してるんじゃないか」
「何ともないと言ったのですが……」
事故に遭ったと聞けば誰だって心配するのではと思った山口がそう言いかけた時、急に少年が視線を上げた。
「西嶋」
声につられて、山口と老婦人はそちらの方を振り返った。
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