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ノックの音に、和泉は顔を上げた。その拍子に首がコクリと軽い音を立てる。朝からずっと机に向かっていたため、どうやら思いのほか疲れていたようだった。いつもならここまで根を詰めて勉強することがないからだろう。今年受験生となる和泉は、通っている高校の附属している大学ではなく別の国立大学を志望していた。
「和泉様」
聞き慣れた声に、和泉は密かにため息を落とした。朝、彼が起こしに来た時にここに来るなとは言ってあった。その言葉通りに朝も昼も食事を持ってきたのは、この家の調理を担当している真壁さんだったのだが。
時計を見れば、いつもなら飲み物にお菓子を添えて持ってくるぐらいの時間だ。とはいえ、来るなと言い置いたはずの彼がドアを叩いたことに眉をひそめながら、和泉は返事をした。
「なんだ」
「お疲れではないでしょうか。紅茶をご用意いたしました」
「いらない」
「しかしすでにご用意してしまいましたので」
「姉さんにでもあげれば」
「もうお出しいたしました」
「……じゃあ自分で飲め」
「イギリスの正嗣様からいただいた貴重な茶葉ですから、私がいただくわけには参りません」
なるほどそう来たかと和泉は小さく唸った。正嗣とは和泉の二人いる下の方の兄で、今はイギリスにある支社の代表をしている。無事に娘が産まれて父親となった兄に佐和と一緒に贈った出産祝いの、お返しの一つがその茶葉だった。芳ばしい香りと上品な舌触りのそれはあまり有名なメーカーではないようで、日本ではそうそう手に入るものではなかった。
「わかった、入れ」
「失礼いたします」
参考書に向かっていた和泉は、ドアが開いて入ってくるのを音だけで聞いた。やがてかちゃりと耳に心地よい音とともに、紅茶の香りが漂い始める。
「ご用意が整いました」
「机に置いてくれ」
「どうぞスコーンもご用意いたしましたので、こちらでお休みになられては」
「いい」
「あまり根を詰め過ぎては逆に集中力も落ちましょう」
「じゃあそこに置いておいてくれ。あとで食べるから」
「冷えてしまいますよ」
「冷えても美味しいだろう」
「しかし紅茶は温かいうちの方が」
「……わかった」
何を言ってもかわされて、先に白旗を上げたのは和泉の方だった。ペンを置いて勉強机を離れる。テーブルセットに腰を下ろし、カップを手に取った。
「もう出て行ってもいい。片付けも自分でしておくから」
「なぜ」
その声にようやく和泉は西嶋のほうを見た。それはこの日初めてのことだった。
「なぜ私を遠ざけられるのです?」
西嶋は戸惑ったような、焦れたような顔で和泉を見ていた。その執事の珍しい表情に和泉は目を瞬かせた。
「避けている、わけでは」
「ならばなぜ部屋に来るなと仰ったのですか」
「それは、」
「それは?」
促されて、和泉は観念したように手を上げた。主の降参の仕草に西嶋が僅かに首を傾げる。
「最近、少し成績が落ち気味だったから」
「そうですか?」
「明日は模試があるだろう」
「そう仰られておりましたね」
「だから今日は集中して勉強しようと思って」
確かに和泉は朝から部屋にこもったままだった。食事も部屋で摂ったほどだ。しかし西嶋にしてみれば、それが自分を避けることとの関連性が見出せない。首を傾げたまま見つめていると、言いにくそうに和泉は言った。
「……お前がそばにいると、つい甘えてしまうから」
予想外の理由に今度は西嶋の方が目を瞠った。
「こうやってすぐ休憩させようとするじゃないか」
「ある程度休憩を挟んだ方が、効率良くすすめられるかと思いますが」
「だから、今こうして休憩してるじゃないか。お前のせいで」
「あまり根を詰め過ぎてはお体に障ります。それにしても」
西嶋が、スコーンを頬張る和泉のすぐそばでカップに紅茶を注ぐ。
「理由がわかってよかったです。なにかお気に障るようなことをしてしまったのかと冷や冷やいたしました」
「大げさな」
「大げさではございません。もしあなたにいらないと言われてしまったら私は」
何かを続けようとして、しかし一度口を閉じた西嶋は、再び口を開いた。
「とても困ってしまいます」
「なんだそれは」
「言葉通りですよ。それではお邪魔にならないように私は失礼いたします」
「西嶋」
部屋を出ようと背を向けた西嶋を、和泉が呼び止める。従順に振り返った執事の視線の先では、主が目を伏せていた。
「もう少し……話し相手をしろ」
「お勉強はよろしいので?」
「余計なことは言わなくていい」
「承知いたしました」
西嶋は甘い微笑を口元に含ませながら、ドアから離れた。そして、必要とされなくなれば生きることさえ困難になるであろう主のそばへと戻った。
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