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彼女のお見合い相手の話
彼女にとって父親の姉、叔母にあたる八千代さんの家に遊びに来るのは一ヶ月ぶりのことだった。子供の頃に母親を亡くしている彼女にとって、八千代さんは母親代わりでもあった。だからなかなか顔を出さないらしい従兄弟たちに代わりしょっちゅう顔を見に来ていたのだが、ここ最近は仕事が忙しくてそれだけの間が空いてしまった。
「すごく素敵な人なのよ」
若い頃はずいぶんアクティブな人だったと聞いているが、足を悪くしてからはさすがに以前のような元気がなくなったように感じる。それでも表情や雰囲気はいつまでも瑞々しくて、こんなおばあちゃんになりたいと思う。
「歳もあなたと同じぐらいのはずだし、とてもお似合いだと思うのだけど」
「またお見合いの話?」
「だってあなたカレシは?」
「いないけど」
「仕事もいいけど相手を探すのも大切よ?」
恋愛ごとには遠ざかって久しいせいか、最近はキャリアばかりが積み上がって、そろそろ昇任の話が出ている。次のプロジェクトが成功すれば、主任にあがるはずたった。
「わかってはいるんだけどねえ」
「恋をしなきゃダメよ」
いつまで経っても同い年の女の子と話しているような叔母を、苦笑しながら見やる。この歳になれば結婚はどうだと聞かれることが多くなる。特に八千代さんは自分を娘のように思ってくれているせいかなかなか口やかましくて、忙しいのを言い訳にしばらく足が向かなかったというのもあった。
「あなたちゃんとすればきれいなんだから、もっとオシャレしなさいな」
「ダメなのはわかってるんだけど面倒で」
「そういうこと言わないの。その人はね、夫の仕事の人なんだけれど」
八千代さんの旦那さんはさるお屋敷の使用人をしていたとても丁寧で所作の美しい人だ。彼の淹れる紅茶は絶品で、それが楽しみの一つでもあった。
「叔父さんと同じ仕事ってこと?」
「ええ。優秀な方でね、しかもすっごくイケメンなの」
まるで10代の女の子のような口ぶりを微笑ましく思う。慣れた手つきでそばに置いてあったスマートフォンを操作すると、この人よとこちらに向けた。スマートフォンで撮ったらしいその写真には、叔母と高校生ぐらいの男の子、そしてスラリと背の高いスーツの男性が写っていた。
「ね?すごくイケメンでしょ?まだ30歳ぐらいじゃなかったかしら」
「確かに」
どうやらこの家の前で撮ったらしい写真に写るその男性は、叔母の言う通りこの画面の大きさでも分かるぐらいにイケメンだった。背筋がきれいに伸びていて、眼鏡をかけていても分かる端正な顔立ちをしている。
「齋藤の後継者なんだけれどね、和泉君がどこかで拾ってきたらしいのよ」
「拾ってきた?そんな犬猫でもあるまいし」
「だからご実家のこととかはあまりよく知らないのだけど、人となりなら保証するわ」
今までも何度か叔母からお見合いの話をされたことはあるが、拾われてきたなんて素性の知れない人物は初めてだった。それでも勧めてくるというのだからよほどできた人なのだろう。
「お仕事はとてもできる方で、お庭の手入れからお食事の用意までなんでもできるのよ。紅茶の淹れ方だって齋藤と遜色ないし」
「それはすごい」
「それにとっても優しくて。この間もお休みの日なのに私のお出かけに付き合ってくれてね。エスコートもスマートなのよ。それに素敵な人だから若い女の子の注目を浴びてちょっと優越感だったわ」
確かに、この顔立ちなら気になって見てしまうかもしれない。けれど自分が隣に立った時にそれに耐えられる自信がない。
「この一緒に写っている男の子。この子が一条の家のご子息なんだけれども、この子のことをとても大切にしていてね。和泉君のためなら骨身を惜しまないというか」
八千代さんの旦那さんが使用人として勤めていたというお家のことは何度か聞いたことがあった。一流企業の社長の家で、たいそうなお邸に住んでいるらしく、確かに少年にはどことなく品がある。
「前にこの和泉君が誘拐されたことがあったのよ」
「え、誘拐?」
「もう、私とっても寿命が縮んじゃったわ。でもその時にね、和泉君を助けたのがこの西嶋さんだったのよ」
「え、警察は?」
「よくは知らないけれど、なんだかヒーローみたいでかっこいいわよね」
えらくのんきなことを言っているが、いったいどんな事件だったのだろうか。新聞は一通り読んでいるが、そんな事件は読んだ覚えがなかった。
「きっと和泉君のためなら命も惜しまないんじゃないかしら」
「使用人ってそういうもの?」
なんだかえらく自分のイメージする職業とは違っているようだ。今の日本で主人のために命をかける使用人なんていないだろう。
「それだけ真面目なのよきっと」
あっさりと八千代さんは言い切ったけれど、その話本当ならば、とてもそれだけのようには思えなかった。
それからしばらく話をして、お見合いの件はうやむやに家を出ることにした。
「また来てちょうだいね」
「わかってる」
頷いて手を振ると、少しだけ安心したような顔をした。足を悪くしてからは自分で外出することもままならなくなったせいで、人寂しいのだろう。別れ際にいつも寂しそうな顔を見せるので、忙しくても毎回ここに来てしまうのだ。
玄関を出るとそろそろ夕方にかかろうとしていた。明日も仕事かと伸びをしながら門を出ると、高校生の男の子が立っていた。
「今晩は」
「あ、どうも」
とっさに答えてどうもはないだろうと挨拶をし直す。少年はわずかに頭を下げてすれ違いに門をくぐった。あれはさっき写真で見た子じゃないか、と思う間もなく黒いスーツ姿の男が目の前に立っていた。
黒髪をサイドに流し、眼鏡をかけていてもわかる端正な顔立ち。小さなスマホの画面で見るよりもずっときれいな顔をしていた。
「今晩は」
挨拶をすると、向こうも軽く頭を下げた。その優雅なことに少々見とれていると、すっと横を通り過ぎる。
「和泉さま」
先に通り過ぎていた少年の方を見やると、どうやら何かにつまずいたようで体勢を崩していた。その腕をさりげなく支えている。
「こんなところで転ばないで下さい。子供じゃないんですから」
「たまたまだ」
思いがけずフランクな会話におやと思う。使用人と言っていたからもっと堅苦しい関係なのかと思っていたが、二人の会話は親しげな様子だった。
「また八千代さんに心配をおかけしてしまいますよ」
「転ばないと言っているだろう」
「どうしてこんなに慣れた道でつまずいてしまうのでしょうね」
「うるさいな」
少年が無造作に返すと、男はガラス細工にでも触れるような繊細な手つきで支えていた腕を離した。そして二人はそのまま家の中へ入っていった。
「あれって……」
八千代さんはお見合い相手にと勧めてきたけれど、どう考えても。
「他人の入り込む余地なんてないじゃないの」
きっと彼は結婚なんて望んでいない。たとえ結婚したとして、奥さんになる人はきっと自分よりも大切な存在に苦しむことになるだろう。だって、ほんのわずかの邂逅でもそう思えるほど彼が少年を大切にしていることが分かる。
「自分で探さないとなあ」
あの少年が少し羨ましいと、彼女は思った。
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