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夜の底
他には誰もいない部屋は静かで、本のページをめくる音だけが微かに聞こえるだけだった。ほどほどにと言った両親が先に部屋を出て行ってから幾許か、キリのいいところまでと読み進めていくうちにこんな時間になってしまった。
そろそろ自室に戻ろうかと和泉が顔を上げたところで控えめにノックが鳴った。全員が寝静まった家の中で、起きているのは和泉ともう一人。
「そろそろお休みなさいますか」
「うん」
「寝る前に何かお持ちしましょうか」
「いや……やっぱり欲しい」
時刻はすでに真夜中と言ってよい時間だったが、執事はいつもと変わらぬ一分の隙もない様子で部屋を出ていくと、ややもせずに戻ってきた。ことりと重い音とともに湯気の立つマグカップを置かれて、和泉は持っていた本に栞を挟んだ。冬を連想させる真っ白な牛乳は、口にするとそのものの味の他にとろりとまろやかな甘みを感じる。喉を通り過ぎながらじんわりと身体を温めるようだった。
「あったかい」
「外はかなり冷えてきましたよ」
「そうか」
和泉が言葉を切るとしんと静まる。耳を傾けても夜はとても静かだ。外がどうなっているのか、この暖かな部屋からは少しも分からなかった。
「姉さんが明日はブーツを履きたいから晴れて欲しいって言ってたけど」
「明日は雪の予報でしたね」
「積もるほどではないだろうけれど、あの神社だと道はよくないだろうな」
毎年、和泉の家では家族揃って同じ神社に初詣に行っている。年中行事は家族が揃うのが恒例で、いつもは忙しい両親はもちろんのこと、明日には家を出た長兄も帰って来るはずだった。英国にいる次兄は一日には間に合わないけれど、家族揃って帰国する予定になっている。天気予報を見て新年に合わせて買ったブーツを下ろせないと嘆く姉は、靴なんてなんでもいいと言った和泉に懇々と説教をしたのち早々に寝てしまった。あのコートにはあのブーツでなければならないと、世の摂理を説くような調子であった。
「他にも持っているのだから、それを履けばいいのに」
「それが女心というものですよ」
「それはお前の経験則か」
「一般論です」
さらりと答える執事を胡散臭そうに見遣って言葉を切ると、遠くの方から微かに鐘の音が聞こえてきた。他には何の気配もなくて、世界から取り残されたような不思議な心持ちになる。そんな夜の底で、和泉は窓の外を見ている執事を見上げていた。
「降ってきたようですね」
「そうか……今年のお正月も雪だったな」
「左様ですね。佐和様と同じやりとりをなさっておいでではなかったでしょうか」
「変わり映えしないな」
「そうですね」
穏やかな声に、和泉はふと不安になる。何も変わらないなんてことはあるのだろうか。
来年、一つ上の姉は二十歳になる。今はこの家に住んでいるけれど、例えば大学を出て社会人になれば兄たちのように家を出る可能性はあるだろう。齋藤が執事の職を辞して久しいが、家の中の使用人だって少しずつ顔ぶれは変わっている。
「来年も同じだろうか」
根拠のない不安を孕んだ声は、思いの外頼りなく響いた。
永遠のものなんてない。来年もそのまた先も同じなんてことはきっとないのだろう。両親だっていつまでも健在ではないだろうし、家族だっていつかバラバラになることだってあるかもしれない。しかしそれは仮定の話であって、現実になるとは和泉にはとても思えなかった。
独り言ともつかぬ問いに、執事は淡々と答える。
「変わらないものなどありません」
それは確かにその通りであるのに、そのことがこれほどに心許ない。普段は気づかない、もしかしたら気づかないふりをしているだけのことが、まるで一人ぼっちのような孤独に和泉を落とした。それは世界から取り残されたようなこの夜のせいかもしれないけれど。
「とはいえ」
本人はそうとは知らず不安げな顔をした和泉を、執事は柔らかく見やった。
「変わっていくことは決して悪いことではありません」
「……そうだろうか」
「それに日々の変化はほとんどが劇的なものではなく、振り返ればそうだったと思うような程度のこと。怖がる必要はないのです」
自分自身がそうだったように、とは心の中に留めたこと。それを知らない和泉は執事の言葉を噛み締めるように反芻した。
それを微笑って見守っていた執事が、
「それに例え何が変わろうとも、私はあなたの傍におりますから」
きょとんとした顔もほんの一瞬のこと、和泉は安心したように目元を緩めた。
「……そうか」
「さあそろそろ日付が変わります。明日も早いのですから」
「うん」
外は雪。音もなく降り続くそれに二人きり閉じ込められた夜の底で、先ほどまでの不安はあっという間に過ぎ去ってしまった和泉が言う。
「来年もよろしく」
「はい」
来年もまた今日と同じように傍にいられたらいいとはお互いの胸の内にとどめたまま。いつかそれを口にすることもあるかも知れないが、それはまだこの時ではなく。いつかやって来るその日に向けてまた年が明ける。
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