私の弟の話

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私の弟の話

 弟が生まれた時のことを、佐和はあまり覚えていない。弟とは一つしか違わないのだから仕方がないだろう。覚えていることは、小さな赤ん坊を連れて帰ってきた母親に抱きつこうとしたら、赤ちゃんを抱いているから無理だと言われて大泣きしたこと。けれどこの記憶も後から聞いたことなのか、それとも本当に記憶として覚えていることなのかは判然としない。  ともあれ、大人に囲まれて育った姉弟は互いが一番の遊び相手だった。 「もう、体調が悪いなら言いなさいってば」 「帰るまでは大したことはなかったんだ」 「鏡見た?顔色最悪だよ」  佐和は手を伸ばしてベッドヘッドにもたれている和泉の額に手のひらを当てる。顔色は悪く、皮膚を通して伝わる熱はかなり高い。どうやら熱は上がり続けているようだった。そのまま額をポンと叩いた。 「無理してまでお祝いなんてしなくていいんだから。どうせ受かったって言ってもエスカレーターの大学なんだし」 「でもせっかく合格したんだから」 「二流大学でも受かったのは奇跡だって?」 「そんなこと言ってないじゃないか」 「聞こえたんだもん」  このやろうと佐和が両頬をつまむと、和泉は困り顔でされるがままになっている。こういう無抵抗なところが佐和の加虐心をくすぐるのだ。しばらく痛くない程度にぐにぐにとやってから、寝なさいと言って手を離した。 「姉さんが寝かせてくれないんですが」 「あ、そういうこと言う?」 「寝ます」  和泉は反論することなく大人しく布団に入った。  今日は佐和の大学合格祝いに、珍しく揃って帰国していた両親と、わざわざ仕事を休んだ長兄、そして弟と家族水入らずで食事に出かけた。海外にいる次兄はさすがに来られなかったが、親子三人の写真にお祝いのメッセージを添えてメールが送られてきていた。  顔馴染みの和食のお店で美味しい食事をして兄の運転する車で帰宅すると、愁眉の執事が出迎えた。 「顔見ただけなのにほんと、西嶋は目ざといよねえ」 「そういうのは目ざといとは言わないんじゃないかな」  有能の上に過保護を乗せた執事は、弟の顔を見るなりベッドへと押し込んだ。弟のことならば家族よりも正確に読み取ってしまう執事は、今日もまた和泉の体調がすぐれないことにすぐに気がついた。 「お母さんでさえあんたの体調不良に気がつかなかったのに」 「心配性なんだよ」  そして弟もまた、あの執事に対しては遠慮がない。佐和が記憶する限り、弟が親に何かをねだっているところなんて見たことがなかった。むしろなにが欲しいと聞かれて困っているように見えた。物欲がないだけかと思いきや、執事にはあれが食べたいどこに行きたいと言っているようだ。人と人の関係とは、どれだけ相手を許せるかにあると佐和は思っている。人には見せない本心を晒すことを「許している」執事と弟との距離はとても近い。もしかしたら執事が体調不良に気がついたのは、弟が執事に対しては気を抜いているからなのかもしれない。  それでは、本来一番近い存在である家族は弟にとってなんなのだろうか。 「そこに腹が立つのよね」 「急になに」 「家族にまで気兼ねするなって言ってるの」 「気兼ねしているわけではないのだけれど」  弟はやはり少し困った顔のまま笑った。 「でも家族だからこそ気を使うかな」 「そう?家族にはどれだけでもわがまま言えるけど」 「姉さんはね」  「なによ」と言えば「別に」と返す。いつも大人びている彼が、子供っぽい顔をしていた。 「他人よりも家族の方が大切なのだから、家族にこそ気を遣うというか、優しくしたいよ」  なるほど、そういう考え方もあるのかと佐和は思った。佐和は本来、言いたいことはなんでも言うという性質ではない。常に考えてから口にする。そういうところは弟と似ているかもしれない。しかし、佐和は家族に対してその必要性が薄れるけれど、和泉はそれが逆に作用するということか。  和泉は昔から周りに気を遣う子供だったが、家族には遠慮しているのではなく、その優しさから気遣っていたということだろう。今日のように。 「でもさー、たまにはワガママも言いなさいよ。私ばっかりワガママなひとみたいじゃない。しかも病人相手に寝るの邪魔しちゃって気が利かないやつになってるし」 「まさか。姉さんは我がままなんかではないよ。相手のことをよく見ているし」  そう言って和泉は、彼にしては屈託なく笑った。その顔はよく一緒に遊んでいた頃のことを佐和に思い出させた。 「子供のときも僕が風邪をひいて寝ているとき、眠るまで隣で話し相手になってくれてたよね」 「よく齋藤に叱られた」  風邪がうつるからここにいてはいけないと、部屋を追い出された。それでもこっそり忍び込んでまた追い出されて。 「一人でいるのが心細いんだけど母さんに言うことができなくて、だから姉さんがそばにいてくれたことがとても嬉しかったよ」 「あんたも同じことしてたじゃない」 「うん。僕も叱られた覚えがある」  二人で顔を見合わせて笑う。二人は気がつかないけれど、その顔はとてもよく似ていた。  ノックの音がしてドアの方に顔をやると、執事が水さしとタオルを持って立っていた。夜だというのに一分の隙もない執事を見てからベッドの方に顔を戻す。 「今は私がいなくても平気みたいだけど、ね」  それが面白くないような、寂しいような。けれどそんな感傷も一瞬のこと、立ち上がりすれ違いざまに「あとはよろしく」と言えば、今は誰よりも弟のそばにいる執事が柔和な笑みで腰を折った。
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