私の上司の話

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私の上司の話

 その使用人Bが一条家で働き始めたのは、まだひと月ほど前のことだった。高校を卒業してしばらく食品製造の工場で働いていたのだけれど、ラインに乗って流れていく加工された食品を見ていると、なんだか自分の人生を見ているような気がしてきて、思い切って辞めた。しばらく無職のままふらふらしていたのだけれど、とうとう父親から働かないなら出て行けと脅され、見かねた母親が持ってきたのがこの一条家の使用人の話だった。 「いいなあ」  彼女の仕事は概ね掃除と洗濯に終始する。いかにも値が張りそうな肌触りのいいワンピースを手にとってため息をつくのが、彼女の日課になりつつあった。 「洗濯は終わったの?」 「あ、はい。もうすぐ終わります」 「そっちが終わったら二階の掃除ね」 「はい」  彼女の指導をしているのはもうここに勤めて長い中年の女性で、別に嫌な人ではないけれど休憩時間に世間話をできるような相手でもなかった。前に勤めていた工場では同じ歳ぐらいの子が何人かいたから、その点では辛くはなかった。話し相手はいないし、この家の暮らしを見ていると自分が惨めな気がしてくるしで、給料はいいけれどここも続くかどうか……。  そんなことをつらつらと考えていたせいか、足を滑らせた。バランスを崩し、これは落ちると思った時だった。 「危ないですよ」  背中を支えられて顔を上げると、眼鏡を掛けた男が彼女を覗き込んでいた。しばし思わず見惚れていた彼女は「大丈夫ですか」と問われて我にかえる。すみませんと謝ってから慌てて離れた。 「気をつけてください」 「は、はい」 「お疲れのようですが、大丈夫ですか?」  話しかけられるなんて思ってもみなかったため、慌てる。まるでドラマのワンシーンに入り込んでしまったようで彼女はドギマギした。 「全然大丈夫です。あの、ちょっと考え事をしていて」 「そうですか。仕事には慣れましたか?」 「はい。あの、きちんと指導してくださるので」 「頑張ってください」  わずかに笑みを残して男が離れていく。その背中を、ほうと息を吐いて見送った。  この家に来て、日本に執事という人が実在していることを知った。まだ若そうに見えるが、彼はこの家の使用人たちを取り仕切っている執事である。そして彼女にとっては上司にあたる人だった。そのなんとイケメンであることか!彼女にとってこの上司が唯一のオアシスで、密かに憧れていた。 「なにをぼうっとしてるの、さっさと上に行きなさい」 「……はい」  後ろから指導係に叱られて、やっぱりちょっと嫌いかも、と思いながら掃除機を持って階上へ上がった。 「失礼します」  なんて無駄に広い家なんだと心の中で悪態をつきながらドアをノックすると、中から返事があった。珍しいと思いながらドアを開ける。 「ああ、ごめん。掃除いいよ自分でやるから」  中にいたのはこの家のお嬢さんだった。この春に高校を卒業していて、春休みの今はやることもないのかベッドに座って雑誌を読んでいた。どことなく品が良くて自分とは住む世界が違っている。 「承知いたしました」  自分よりいくつも下の女の子に敬語を使いながら、次の仕事を探そうかと本気で思案していた。部屋を出て次の間に入ろうとノックしかけた時だった。 「別にいいと言ってるだろう」 「しかし、そんなことを言ってこの間は事故に遭われたではないですか」 「あんなのは不可効力だ」 「その不可効力に遭わないためにお送りしますと言っているのですが」 「あんなことはそうそうない」  さらに隣の部屋からいい合う声が聞こえて、開きっぱなしのドアをちらと覗いた。先ほどの執事と一緒にいたのはこの家の一番下の息子だった。高校生のはずだが歳の割には華奢な少年だと思う。こちらも勿論、自分の周りにはいなかったタイプだ。 「バスに乗ればすぐの距離だからいい」 「車の方が早いですよ」 「たまには歩かないと」 「そう仰いますが、この間バスでお出かけになった時は知らない人物の車にほいほい乗っておられませんでしたか」 「……あれは、あれだ。お前が言うのか」 「だから心配なんです」  当家の執事はとても有能である。他のどの使用人よりも忙しく長い時間働いているが、そんなことはおくびにも出さず常に背筋の伸びた、いっそ優雅ともいえる所作でその一切をこなしていた。そして他の使用人とは一線を画し、決して馴れ合うことはなかった。そんな上司なのだが。 「びっくりするでしょ」  後ろから突然声をかけられて文字通り、飛び上がるほど驚いた。振り返ると、先ほどまで自室で雑誌を読んでいたお嬢さんがすぐ後ろに立って部屋を覗いていた。 「あの、すみません。別に立聞きしていたわけでは」 「ああ、別にいいよ。気になるでしょうるさいし」 「いや、その」  なんと答えていいものか悩んでいる間も、二人は何か言い合っている。どうやらバスで20分ほどのところにある本屋に車で行く、行かないで揉めているようだった。後ろにいたお嬢さんが隣に並んで、呆れたようにため息をつく。 「ほんっと過保護だよね」 「そうなんでしょうか」 「そうだよ。いい歳した男子に送り迎えってどーなの」  確かに年齢にしては華奢だけれど、雰囲気でいえば自分なんかよりずっと落ち着いて見える。何より彼は高校生なのである。 「確かに、そうですね」 「でしょ?ちょっと過保護すぎて引くよね。せっかくいい男なのに」  今までお嬢さんとはあまり顔を合わせたことがなかったし、話したことなんてほとんどなかった。だから思いのほかさっぱりとした物言いに驚いていた。いいところの家のお嬢さんだからと思っていたけれど、自分の周りにいたような女の子と変わりない。 「私ちょっとマジの初恋だったんだよねえ。弟のせいで失恋てどうかと思わない?」  冗談交じりの言葉に、結局のところ笑ってしまった。  話している間に、どうやら執事が押し通したようで車で送っていくことに決まったらしい。確かに上司は惜しいイケメンのようだ。  あまり褒められたことではないけれど雇い主のお嬢さんと笑い合うと、もう少しここで頑張ろうかなと使用人Bは思った。
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