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蜂蜜
「和泉様」
ソファに座って本を読んでいた和泉が顔を上げると、ティセットを持った西嶋が入ってくるところだった。手に持ったそれをテーブルに置くと、西嶋は丁寧な所作でポットから紅茶を注ぎ、ひと匙の蜂蜜を垂らす。それを和泉の前に置くと、徐ろに主人に向かって手を伸ばした。
「寝癖がついております」
「どこに」
確かに、和泉の後ろ髪の一部がひょんと跳ねている。高価な織物にでも触れるような手つきで和泉の柔らかな髪に触れながら、西嶋は言った。
「本当に寝相がよくないですねえ」
「うるさいな」
「風邪をお召しになってはいけませんので、毎晩布団を掛けにお伺いしなければいけませんし」
「それは悪かったな」
「とんでもございません。それが私の仕事ですので」
西嶋は端正な顔に笑みを乗せて答える。和泉はそれを胡散臭そうに見やった。
「お直しいたします」
「大叔母の誕生日パーティーまで、もうあんまり時間がないんじゃないか」
「10分もあれば大丈夫ですよ。そのまま座ってお待ち下さい」
失礼しますと一旦そばを離れると、しばらくして戻ってきた西嶋はタオルとドライヤーを手にしていた。
「別にこれくらいいいのに」
「いけません。たとえご自分の寝相が悪いせいであったとしても、主を寝癖のついたまま人前に出すなど、執事失格です」
「主人への暴言は失格じゃないのか」
「事実の指摘です」
涼しい顔で言う己の僕にため息をついて、和泉は本をテーブルに置いた。話している間も西嶋は手際よく、しかしとても繊細な手つきで寝癖を直していく。
くるんと跳ねた個所を湿らせたタオルで濡らしてから、ドライヤーを当てる。それから丁寧に櫛を入れた。
「そもそも和泉様は普段から姿勢も正しいですし、休みの日なんか蛹かと思うほどに活動停止していらっしゃるというのに」
「貶しているのか?」
「どうして寝ている時だけあんなに動き回るのでしょうねえ」
「知らない」
不機嫌な顔をした和泉の後ろで、西嶋は声なく微笑う。無論、和泉はそれを知らない。
「今日は雨ですから、余計に跳ねるのかもしれませんね」
「湿気というやつか」
「癖がつきやすいのでしょう。さあ、直りましたよ」
和泉は髪に触れる。ちょんと跳ねていた感触はなくなっていた。
「これからはナイトキャップでも被りますか?」
「結構だ」
左様ですか、と西嶋は冗談か本気かわからない返事をする。
「僕にはナイトキャップよりも優秀な執事がいるから。寝癖を付けようが布団を蹴っ飛ばして寝ようが関係ないんだ」
そうだろう?というように振り返る和泉に、西嶋はただ笑みを返した。
「そろそろ時間だ。パーティーは億劫だが遅刻はできない」
「昨年はそれで大叔母様に叱られましたからね」
「まったく面倒なことだ」
ため息交じりに呟くと、和泉は億劫そうに立ち上がり部屋を出る。従順なる僕は静かにそのあとに従った。紅茶に垂らした蜂蜜よりもなお甘い、蕩けるような笑みを浮かべたまま。
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