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もしも別れの朝が訪れたら…
その日は、昨日降った雨に洗われた空気が気持ちのいい朝だった。辺りには秋らしい柔らかな日差しと、木の葉から零れる雫の音さえ聞こえそうな静寂が満ちている。まさに旅立ちにふさわしい日といえよう。
「忘れ物はございませんか」
「ああ」
整然と剪定された草木が瑞々しい屋敷の玄関には三人の人影があった。そのうちの一人の傍には大きなキャリーバッグが置かれている。
「大きな荷物は先に送ってあるから」
「細々とした身の回りのものは」
「昨日何度も確認した。お前も見ていただろう」
「確かにそうですが、和泉様は肝心なところで抜けていたりもしますからねえ」
「それは暴言ととるぞ」
「慎重に過ぎることはございません。……取りに帰ることはできないのですから」
そう言って西嶋は困ったように微笑った。その顔を見た和泉がふいと顔をそらす。
「大丈夫だ」
言い切ったあとに、「と思うけど」と少し自信なさげに答える。
「あちらは乾燥しておりますから、風邪には十分お気をつけください」
「うん」
「和泉様は一度風邪を召されると長いですから」
「わかってる」
「くれぐれも眠るときは暖かくして下さいね。すぐに布団を蹴飛ばしてしまいますし」
「ああ、わかってる」
「直して差し上げることはできませんから」
「そう、だな」
いつもならやかましいと一蹴する小言にも、ひとつひとつ頷いて答える。そしてそっと息を吐くと腕時計を見た。
「……そろそろ出ないと飛行機の時間に間に合わなくなる」
「もうそんな時間ですか」
「ああ」
「まだ何か大切なことを言い忘れている気がして」
言って、未だ案ずるように眉を寄せる西嶋を、和泉は見上げた。
「そんなに心配しなくても大丈夫だから」
「けれど」
西嶋が切なく笑う。
「けれどあなたは、私の手の届かない遠くへと行ってしまいますから。心配で仕方ありません」
和泉はちょっとだけ目を瞠ってから、そっと視線を落とした。朝の静寂が二人の間に落ちる。
「ねえ」
小鳥のさえずりのもと、三人目の人影が声を上げた。
「これって1週間のホームステイに行くだけの別れなんだよね?」
見送りに出てきた三人目……姉の佐和が言った。弟がこれからカナダへ1週間語学留学としてホームステイするというのでわざわざ早起きして見送りに来たのだが。
「今生の別れみたいなこれは何よ」
もう二度と会えないかのような悲哀さを含んだやり取りに、完全に空気と化していた佐和は、耐えきれずに突っ込みを入れた。
「ですが」
「何よ」
誰もが見惚れる甘く、そして少し憂いを帯びた笑みを浮かべ西嶋は言った。
「1週間もお側を離れるのは私にはとても辛いことですから」
至極真面目に答えた西嶋に、和泉はそっぽを向く。佐和はといえば今日一番になるであろうため息を爽やかな朝に吐き出した。
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