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もしも執事の心の声が聞こえたら
「僕に近づくな」
朝、いつも通りに起こしにきた西嶋は、主の不条理きわまりない言い付けに不満に思うよりもまず困惑した。
「理由をお伺いしても?」
「特にない」
その答えは疑問を解消するどころかますます深まるばかりだ。まだ顔を合わせてから一時間と経っていないというのに、何か粗相でもしただろうかと考えを巡らせる。それを割って入るように和泉が言った。
「別にお前が悪いわけじゃない」
「ではいったいなぜなのでしょう。何か不都合でもございましたでしょうか」
「別にない」
西嶋はさらに困惑する。ここまで頑なに拒絶される要因が彼には思い浮かばない。まして自分に非がないと言われれば、それ以上どうしようもないのである。果たして昨日、何かあっただろうか。
「本当に、お前は悪くない。これは僕の問題で」
「どういうことです?」
ソファに座り紅茶を飲んでいた和泉は、カップを置くとむしろ本人の方が困った様子で口ごもる。それでもなお待ての姿勢のままの執事に根負けして口を開いた。
「お前の」
「私が何か」
「お前の思っていることが、聞こえる」
「思っていること?」
西嶋はわずかに目を瞠ったが、すぐに考え込む素振りを見せた。
「私だけですか?」
「どうやら」
「何か思い当たることは?」
「昨日、横断歩道で立ち止まっているご婦人がいたから手を引いて差し上げたんだが、その時にお礼にともらった飴を昨日、食べた、ら」
「今朝、そうなっていたと?」
困ったように頷く和泉に、西嶋がなるほどと頷く。そしてそれならば、と続けた。
「問題はございません」
「どこがだ」
「私はあなたに知られて困ることなど何もございませんので」
「そういう問題じゃ、ない」
ではどういう問題でしょう、と返されて和泉はなんともいえない顔をする。西嶋にとって、自分に関することで主に隠すべき事柄などありはしないのだ。何を考えているのか悟られたとしても、特に困ることなど何一つない。
「お前が自ら話すのと、そうと知られずに分かるのでは意味が違うじゃないか。フェアじゃない」
「そもそも、私ども使用人と主人である和泉様の間にフェアなことなどあり得ません」
使用人である自分が主に対して不公平だと感じるなどもってのほかである。
「そんな時代錯誤なことを。雇用主と労働者とはフェアでなければならないだろう」
「資本主義社会ではそれが普通でしょうが、一般企業と私どもでは働く意義が違います。主人と使用人との関係をそれと同じにされては困ります」
「そういうものか」
「少なくとも私はですが」
言ってにこりと笑う。そして「そもそも」と続ける。
「私のような者が不躾なことを申し上げても鷹揚に許してくださる主人ですから、思ったことも正直にお話ししておりますよ」
「寝相が悪いとかか」
「すぐに何かに巻き込まれてしまいますし」
「そんなことはない」
「誘拐されたり知らない者の車に乗ったり事故にあったり。気が気ではありません」
それには心当たりがあるのか、ぐっと言葉に詰まる。その都度助けてくれるのがこの有能なる執事なのは間違いがないからだ。
「結構頑固ですしね」
「そうか?」
「自分のことには無頓着で」
「まあ、確かに」
「本を読み始めると周りのことは全然見えなくなってしまいますし」
「そんなことは」
「何度かバスを乗り過ごしてお迎えに行きましたねえ」
空になったカップに紅茶を注ぎながら大げさにため息をついてみせると、それは前にも言われたと和泉はバツが悪そうに言った。
「だから申し上げているではないですか。あなたには何でもお話ししていると」
「それもどうかと思うが」
「そうですね。和泉様は使用人に優しすぎます」
それだけではなく、どんな人間にも主は優しすぎる。そのせいで面倒ごとに巻き込まれることも多々あった。しかしその優しさこそがこの主の最大の魅力であり、主人と慕うところではあるのでそれを直せとは言えないのだが。
「だから、そういうことを今考えるのはやめろ」
「では、口にすればよろしいですか」
「嫌なやつだな。だから僕に近づくなと言ったんだ」
「それは無理なご相談です」
この人のそばにいられなくなれば、これからの人生をどうやり過ごせばいいのか分からない。すでに西嶋にとって執事という仕事は人生と同義なのである。
西嶋を見上げる顔には何ともいえない表情が浮かんでいて、なるほど考えていることは筒抜けのようだった。
「やっぱりダメだ。そういうのが聞こえる限り僕のそばに寄るな」
「私は一向に構いませんが」
「僕が構うんだ」
「しかしそれでは誰があなたに紅茶をお出しするのでしょう」
「誰でもいい」
「そういうわけにはまいりません。主人に出すものは、常に最善でなければなりません。それに」
西嶋が不意に言葉を切り、和泉は訝しげに見上げた。その視線を受けて西嶋は口を開く。
「あなたに紅茶をお淹れするのが私の幸せの一つでもありますので」
だってあなたは私の、この世界で一番大切な人なのですから。
「……今のは確信犯だな」
「心で思うことまでは止められませんから」
「心の声が聞こえると言っているだろう」
忘れておりました、と西嶋がその端正な顔にいつもの笑みを乗せて返す。和泉はその顔を胡散臭そうに見ながらも、何も言わずにカップに口をつける。どうやら近寄るなと言うのは諦めたようだった。
「やっぱり他人の心の裡など分かるものではないな」
「そうですね」
「そう思うのなら離れればいいのに」
「それは無理なご相談ですねえ」
つんと顔をそらした和泉に、西嶋は微笑う。
さて、この執事が本当の本当には隠している本心もあるのだけれど、彼にとってこれは主が知る必要のないことのようだ。とはいえ、その本心もまた主を見つめる甘ったるい顔を見れば、隠しきれるものでもないのだけれど。
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