いつかの君へ

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いつかの君へ

 長く降り続ける雨がアスファルトを弾いて、街全体が白く(けぶ)るようだった。降ったり止んだりを繰り返す空は灰色で、晴れ間も続かないからか、もう間も無く夏だというのに肌寒かった。 「いつもの場所にいる……分かった」  電話を切ると和泉は、ガラス越しに灰色の空を見上げた。まだまだ止む気配を見せない雨が軒先から雫を滴らせている。参考書を買うためにバスで大型書店まで来ていたが、いっかな止みそうにない雨に飽いていた和泉が迎えを頼んだのは仕方のないことでもあった。  迎えが来るにはまだ少しかかるだろうと店内から外を見ていると、その軒先の辛うじて雨の当たる場所に学生服の男が立っていた。しっとりと湿った長い前髪が隠して顔はよく見えない。 「あの」  店を出た和泉は傘を差すと男に声をかけた。明るい髪の合間から驚いたような目が見える。 「傘をどうぞ」 「は?」  差していたビニール傘を差しかける。相手は背が高く、和泉は少し腕を伸ばした。 「僕は今から迎えが来るので傘はいらないのです」 「いやでもあんたの傘だろ」 「以前、急場に買ったものなので」 「俺が濡れて帰ろうがあんたには関係ない」 「そうですね。でも僕はあなたに気が付いてしまいました」 「おせっかいなやつだな」 「そういう性格のようです」  言いながら和泉は、困ったようにため息をつく当家の執事を思い出した。「それはあなたのいいところであり、困ったところでもあります」と。 「あんまり知らないやつにそういうこと、しない方がいいんじゃねえの」 「よく叱られます」 「親にか」 「いえ……」 「また怒られるんじゃない」 「そうですね。心配ばかりかける、と」  眉根を寄せる執事を思い浮かべて和泉は微かに笑った。 「だったらなおのこといらない。俺には心配するようなのはいないから」  男がふと顔を傾ける。その顔に瞬間、さっと日が差して。和泉は目を瞠った。 「僕は」  傘を差しかけたまま男を見上げている。湿気を吸った髪が流れて、整った顔が和泉を見ていた。 「あなたが風邪を引いたら心配します」 「は?」 「僕はあなたが雨に濡れて風邪をひいてしまうのが心配です」  男が不思議そうに和泉を見返してくる。 「そんなふうにあなたを心配する人が、一人もいませんか?」  和泉の問いかけにしばらく考えた素振りを見せて、思い当たったのか微苦笑を浮かべる。 「ツレには呆れられるかもな。バカは風邪ひかないのにって」 「仲がいいのですね」  ただの腐れ縁だ、と言って男は空を見上げた。雨足はやや弱まって、あるかなしかの霧のように空気を湿らせている。そして再び視線を和泉に戻した。 「もう行くよ。傘はいらない」 「しかし」 「大した雨じゃない。それにあんたの方が、傘を誰かに渡したなんて言ったら叱られそうだろ」  そうして前を向くと男は走り出し、振り返りもせずに白く煙る街の中に消えていった。 「和泉様?」  呼ばれて振り返ると眉を寄せた西嶋が立っていた。 「何故こんなところにいるのですか。中でお待ち下さいと」 「うん、分かってる」 「また風邪を召されたらどうするんです」  呆れたようにため息を吐くと、すぐ傍に停めてあった車のドアを開けた。和泉はほんの一瞬だけあの後ろ姿を探したけれど、それはもうどこにも見当たらない。ドアが閉まってしまうと、雨に濡れた窓からは外がよく見えなくなった。 「お前だって傘をさしていなかったじゃないか」 「ほんの一瞬です」 「そんなこと……僕だって」  運転席に座る西嶋の髪が、湿気を吸って暗く光っていた。それを見ながら和泉は言った。 「僕だってお前が風邪を引いたら心配する」  窓の外はまた雨足を強めていて、先程の彼は濡れていないだろうかと思う。誰かに似ているような気がして思わず声をかけてしまったけれど。あれはこの長雨が連れてきた幻だったのだろうか。その運転席の後ろ姿に、白く煙る町に溶けていった彼の背中が重なった。 「ご心配には及びません。私が風邪を引いてしまったら、朝あなたを起こす者がいなくなってしまいますから」 「……自分でだって起きられる」  微かに笑ったような気配を感じて、フロントミラーを見たけれどいつも通りの顔があるだけだった。しばし沈黙のあとおもむろに、 「けれど、ありがとうございます」  自分を心配してくれる誰かがいるということが西嶋にとってどれほど幸せなことなのか、勿論、和泉は知らない。 「明日には止むかな」 「予報では晴れてくるようですよ」  そうか、と呟いて和泉は遠くを見る。それきり車の中はしんと静まった。  心地よい沈黙をのせた車は、傘を差す人々の往来する街角を、雨の中、通り抜けていった。
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