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執事と主人とその家族
弟の飲んでいたグラスをそっと下げたことに気がついたのは多分、私だけだったと思う。代わりに水が入ったグラスを置いたのも。それが何を意味するのか分からなかった私は、それをした本人をそっと見やる。一条家の優秀なる執事は、無駄のない所作で一礼すると静かに部屋を出て行った。
妻と娘を連れて帰国したのは、年が明けて二月のことだった。乳児を連れて飛行機に乗るのはかなりの勇気を要したが、娘は私と妻が呆気にとられるほど大人しく眠っていた。空港で一度大泣きしたが、お腹が空いていたようでミルクをやると再び寝てしまった。全く良い子である。
「そういうの親バカっていうのよ」
そうだよね、と話しかけると佐和の腕の中で大人しくしていた娘はふにゃふにゃと笑った。久しぶりに会ったというのに、娘は人見知りもせずに抱かれている。妹の佐和は年子の弟と二人、大人に囲まれて育ったから子供には慣れていなくても不思議ではないのだけれど、親戚家族の多い一条家においては乳児の扱いにも慣れっこのようで、頼もしい限りだ。
「でもああいった場面であまり泣かないというのは親にとってとてもありがたいことなんだ」
「確かに、樹里ちゃんあんまり泣かないよね」
「僕も赤ちゃんはもっとよく泣くものだと思っていた」
さて、もう一人の歳の離れた兄弟である和泉の方はといえば子供は苦手らしく、娘を抱く時も恐る恐るという手つきだった。それでも可愛いとは思っているようで、今も佐和の腕の中にいる娘を穏やかに見つめている。私も妹が生まれた時はそうだったが、嫌いというわけではなく接し方が分からないだけなのだろう。
「本当かわいいよね。やっぱ子供なら女の子がいいなあ」
「私も娘がこんなにかわいいものだとは思ってもみなかったよ」
「私もお兄ちゃんがこんなにデレデレになると思わなかったもん」
「え、そんなにかな」
娘といるときの自分はそんな風なのかと愕然とする。そんなに表情に出ているのかと頬を撫でていると、和泉と目があった。
「和泉から見てもそうかな」
「そうだね」
「やっぱりそうなんだ」
「自分の子供が可愛いのはいいことなんじゃないかな」
「でもなんとなくイメージっていうのもあるだろう」
例えば、夜も遅いというのにまだ会社にいるらしい兄は初めての姪に甘々で、なんでも買い与えないでと私の妻に叱られていた。ただ、妹や弟たちにも甘い彼のことなので大方の予想通りのことではあったのだが、どちらかと言えば淡白だと言われる自分がそう見られるのは少し気恥ずかしい。そう言うと和泉は、
「普段落ち着いている兄さんが、娘の挙動に一喜一憂してるのは可愛く思うけれど」
「え」
まさかそんなことを言われるとは思わなかった私は軽く動揺した。可愛いとは、私と真逆の性質ではないだろうか。
「兄さんに可愛げがなかったら、会社のサッカーチームに誘われたりしてないよ。そんなに得意じゃないのに。そこが兄さんのいいところじゃないかな」
「確かにねえ。お兄ちゃんて自分のことクールだと思ってるかもしれないけど結構天然なとこあるから、そのギャップにキュンとするんだよね」
十も歳の離れた妹たちにどう返したらいいものか困ってしまって向かいに座っている妻を見ると、彼女は肩を竦めて見せた。
「あなたは見た目の印象が中身を裏切ってるんだよ。もちろんいい意味でだけど」
「いい意味でっていう時は大体、悪い意味も内包してるんだ」
「褒めてるんだから素直に受け取りなよ」
大学時代の同期生でもある妻は、海外生活も長くそれこそ向こうの気風にすっかり染まっているので、私に対してもいつも率直である。腑に落ちないながらも、そういえば会社の同僚に「お前は意外とかわいいところがある」と言われたことを思い出していた。そういうことなのだろうか。
「君のことは信頼しているけれど、もう少しオブラートに包むというのも大事だと思うよ」
「これが私の美徳だって言ったのは貴方だよ」
「そうそう、瞳さんのいいところは奇譚のないご意見をくれる事と、男前なところだよね」
妻の瞳と妹は仲が良く、帰国すると一緒に出かけることも多い。すでに私を介さずにやりとりをしていて、ロンドンに遊びに来ていた時は妻が案内をしていた。仲が良いことはとても喜ばしいことではあるのだが、こうなるとこちらの分が悪い。娘までもが妻たちの肩を持つように笑い声をあげている。味方を求めてこの場で唯一の同性である弟に目を向けた。
「僕もお義姉さんは素敵な女性だと思うけれど」
「あら、ありがとう」
「いやいや私も瞳が素敵じゃない女性だとは言っていないよ」
「私にはそう聞こえたけど」
「君こそ私の言葉をストレートに受け止めてくれ」
どうあっても私に不利な展開が見えて、愚痴ともつかないものをため息と一緒に吐いた。
「なんだかこれからどんな顔をしてたらいいのか分からなくなったな」
「お兄ちゃんは今のままでいいよ」
「クールぶっててバカみたいじゃないか」
「そのクールなお兄ちゃんがたまに天然だから可愛いんだよ」
「その可愛いっていうのがなんとも……」
三十手前の男には抵抗感がある。可愛いと言われて喜ぶ男なんているだろうか。いや、弟のことは可愛いけれどそれは意味合いが違うではないか。
そんなことを考えていると、リビングのドアが開いて兄が顔を出した。今まで会社にいたはずだが疲れた顔をしていないのはさすがだなと思う。
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