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全身が真っ黒な佇まいの中で、シルバーのフレームが印象的だった。その眼鏡をしていても明らかな、端正な顔立ち。黒髪は綺麗に整えられている。姿勢良く步いてくる男とすれ違った女性があからさまに振り返った。
「すぐそこのパーキングに停めてまいりました」
男は山口の傍を通り過ぎ、少年のすぐ脇に立った。年齢からすれば自分と同じくらいだろうか。背が高く、仕立ての良い黒いスーツをモデルのように着こなしている。男の目から見ても男前で、想像していた中年女性とは全く違っていた。
「まだ警察は到着していないんだ。まだ待たないといけなくて」
「そうですか」
「す、すんません」
不意に視線を向けられて山口は思わずがばりと頭を下げた。当然とはいえ、少年を見ていたのとは違う温度の低い目に耐えられなかったのだ。顔を上げた時には男の視線は少年の方に戻っていた。
「ぶつかったと言っておりましたが」
「鞄に当たって少しよろけてしまっただけだ」
「左様ですか……こちらのご婦人は」
男が今度は老婦人の方を見やった。見つめられた彼女はにっこり笑うと「その子に助けていただいたの」と答えた。
「この方の車に気がつかないまま横断歩道を渡っていたら、この子が声をかけてくださって。おかげで私は大丈夫だったのだけど、代わりに少しぶつかったみたいね。本当にごめんなさい」
「謝るっていうなら俺の方が。元々俺の不注意のせいだから」
山口が慌てて謝ると、男は視線を少年に戻した。それから小さくため息を落とす。
「それで、本当にお怪我はないのですね?」
「ないと言ってるだろう」
少し呆れたように少年が男を見やった。今まで山口たちに見せていた態度よりもずいぶんと気安い態度は、二人がとても親しいのだろうと感じさせた。
男の到着から程なく警察官がやって来た。事故の様子を話すのは、実際にやってみると難しいものだった。時系列が逆転したり言い訳がましくなったりと、落ち着いているつもりで思ったよりも動転していたようで、少年が落ち着いて話しているのを見て恥ずかしくもありがたくもあった。一通りのやり取りを終えようやく解放されると、山口は再び二人に頭を下げた。
「本当にすんませんでした。なんかあったらここに連絡してください」
手帳に名前と携帯電話の番号を走り書きして二人に手渡した。保険会社を通してやり取りするよう手筈は整えたが、二人の態度を見ていれば誠意を見せるためにも渡しておこうと思ったのだ。
少年は受け取ったメモを丁寧に畳んで手帳に挟み、老婦人は小さく折ると持っていた巾着袋の中に入れていた。
「どこか痛かったりしたら病院に行ってくださいね」
「あらそんなこと言ったらわたしおばあちゃんだから、腰も膝も体中あちこち痛いの全部あなたのせいになるわよ」
言い方がおかしくて山口が思わず吹き出すと、少年もつられたように笑った。それでようやく人心地がついた気がした。和やかな空気の中、少年の横で口を挟まずに立っていた男が老婦人の方を向いた。
「どうやって帰られるのですか?よければお送りしますが」
「大丈夫よ、お迎えを呼んだから。ありがとう」
しばらく皆で老婦人のお迎えを待っていると、すぐ近くに停まった車から中年女性が降りて来た。気がついた老婦人が顔を明るくする。
「早かったわねえ」
「電話をもらって慌てて出てきたんです。すみません、義母がお世話になりました」
「いえ、俺が悪いのでほんとに。もしどこか悪いとこがあったら連絡してください」
「今回は怪我もなかったからいいようなものの、散歩だってあんまり遠くに行かないようにっていつも言ってるので義母にはいい薬になりました」
「それこそ歩かなくなったらボケちゃうわよ」
「加減ていうものがあるでしょうに」
呆れたように言ってから二人はもう一度頭を下げて帰って行った。それを見送って、山口は少年の方に向き直る。
「君も、なんかあったら連絡してくれよ」
「分かりました」
「今からなら午後の診察に間に合います」
唐突に男が腕時計を見ながら言った。山口は男が白い手袋をしていることに初めて気が付いた。少年が怪訝そうな顔で男を見上げる。
「なんのことだ」
「足が痛むのでしょう」
「えっ」
山口は思わず少年の足を見たが、もちろん異常は見つけられない。実況見分の時も歩いていたけれど、思い出しても少年が痛がるような素振りは一切なかった。一体いつから気付いていたのかと驚く。
「別に痛くは、」
「嘘をついても分かります」
「……少し捻っただけだ」
「ご婦人に気を遣ったのでしょうが、お帰りになったのでもういいでしょう」
窘めるような口調は使用人らしくなく、叱られてふいと横を向く少年は先ほどの落ち着き払った実況検分とは別人のようで、年相応の子供のように見えた。
「痛いんだったらちゃんと病院に行ってくれよ?あとからもっと痛み出すってこともあるんだから」
「……いえ」
「ご心配には及びません。今から連れて行きますので」
男に視線を向けられて、山口は背筋をピンと伸ばす。どことなく緊張させられる男だと思う。
「ここで待っていてください。車を取って参りますので」
「ここから近いなら歩けるから」
「ここにいてください。いいですか?ここから動いてはいけませんよ」
「……分かった」
小さな子供にでも言い聞かせるように言って、男は歩き去っていった。あとには呆気にとられた山口と気まずそうな少年だけが残された。
「……知らない人にはついて行ってはいけませんよって言い忘れたんじゃないの」
「心配しすぎなんです。いつまで経っても子供扱いで」
少年は今にも頬を膨らましそうに不満げな顔をしていた。身長はあまり高くないし線も細いから一見幼く見えるけれど、話してみるととても落ち着いていて大人びている。なのにこうして叱られてふて腐れたような顔を見るとやっぱり子供らしい。
「足が痛かったなんて全然気が付かなかった。彼が言わなかったらきっと足を捻ってるなんて気付かないままだったよ」
「彼には嘘をつけないんです。すぐに分かってしまう」
「よく気がつく人なんだろう」
「姉が言うには過保護なんだそうです」
言い方がおかしくて笑うと、少年も困ったように笑い返した。
「使用人とかはよく分からないけど、仲がいいんだな」
「そう、ですね」
不意に言葉を切って少年は男の歩き去った方を見た。それはなんとも形容し難い表情だった。
「彼には僕以上に僕のことが分かるみたいです」
それは自分のことを自分以上に知っている人間がいることを許している言い方だった。それがどんな感覚なのかは山口には分からなかったが、それほど信頼されている男を羨ましく思った。
さて、そんな山口が新しい仕事を見つけるのは一月ほど後のこと。実は資産家だった老婦人の会社に縁あって入社することになるだが、それはまだ山口には与り知らぬことだ。
少年が不意に顔を上げてつられた山口も顔を上げる。向こうの角から黒塗りの美しい車が曲がってくるのが見えた。
「歩けますか?」
和泉は後ろに立つ西嶋を呆れたように見上げた。病院の玄関から駐車場に停めた車まで歩いたところでどれほどのものか。薄らと笑った顔を見ればわざと言ったのだろうと分かった。取り合わずに和泉は自動ドアを抜ける。
「だから少し態勢を崩しただけだと言っただろう」
「あまり運動が得意ではありませんからねえ」
「うるさいな」
左折してくる車に全く気づかないまま横断歩道を渡ろうとするご婦人を見かけたのはほんの偶然だった。反射的に、本当に思わずという感じで手を伸ばしてしまったが、心の準備も何もなかったためうまく避けきれなかった。彼女を庇えたのも、この程度の怪我で済んだのも幸運でしかない。診察でも軽い捻挫との診断で、湿布をもらっただけだった。
「大したことがなくてよかっただろう」
「良くはございませんよ。和泉様がとてもお優しい方だというのは承知しておりますが、そのたびに何かに巻き込まれていてはこちらの心臓が保ちません」
「大げさな」
どうだか、といった風情の執事に見返されて和泉はふいと顔を背けた。
「お前なら上手に助けたのだろうけれど」
「さてそれはどうでしょう」
何事もそつなく以上にこなす当家の執事のこと、あんな場面でもきっとスマートに助けられるだろうと思ったのだが。
「私はそれほど善人ではありません」
いつの間にたどり着いた車を前に、和泉がキョトンとした顔で見上げて、それに甘い顔を返す。隣を通り過ぎようとしていた女性が思わずというふうに西嶋の顔を振り返って行った。
「貴方以外のことならば、私はそれほど機敏ではありませんので」
「……そんなことは、ないだろう」
それには答えない執事は美しい所作で車のドアを開け和泉を促した。なんとも答えようのない和泉はそれに従って、ほとんど分からない程度に足を引きずって車に乗り込む。丁寧にドアを閉めた西嶋はまだ先ほどの微笑を残したまま……。
知っているのかいないのか、相手に向けた感情は今日も抱え込んだ二人を乗せた車は静かに街の中を走っていった。
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