241人が本棚に入れています
本棚に追加
「さとみ……いったい……いったい僕のなにがいけなかったんだ……さとみ……」
よくある痴情のもつれに過ぎない智美との一件は、しかしながら鬼崎の精神に看過しがたい問題を引き起こした。鬼崎は不眠症となり、仕事も休みがちになった。
郷里にいる彼の母親は、鬼崎に彼の生まれ故郷である秋田に戻ることを強く勧めた。しかし、鬼崎はまるで智美の幻影に憑依されたかの如く彼女の痕跡に固執し、頑なに東京に留まることを求めた。
鬼崎はやがて精神の恢復を求めて新宿にある診療所に通うようになった。おもに水商売の女たちを相手に開業している小さな診療所だった。野添翔平という、どこかしら、影を帯びた男が院長を務めていた。
そこで鬼崎に下された診断は双極性障害だった。また心身のストレスから睡眠にも問題が生じているとのことだった。
いつも物静かな野添は鬼崎の心の問題を紐解くために真摯な瞳をなげかけ、彼に優しく問いかけた。決して深追いせず、柔和な言葉を綴る野添に鬼崎は心酔した。ともすれば崇拝の念すら抱いた。
鬼崎の通院は続き、ついには夏を迎え、そしてその夏も終わりに近づいていた。
「……先生、僕は……僕は治るのでしょうか?」
躊躇しつつも問いを発する鬼崎の双眸を見据え、野添は優しく諭した。
「もちろんですよ。あせる必要はありません。双極性障害、いわゆる躁鬱病の治療には根気が必要です。だから、あせったり、自暴自棄になる必要はありません。気分安定薬を服用しながら定期的に診断を重ねていきましょう……」
鬼崎はあるときは気分が落ち込み、典型的な鬱になった。しかし、また別のときには気分が過剰に高揚し、怒りとイライラにさいなまれた。このけだるい晩夏の午後6時、鬼崎は鬱の状態にあった。
最初のコメントを投稿しよう!