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まるで洗いたてのような、しとやかな髪の残り香を漂わせ、智美が店の奥に消えた。それは鬼崎がよく知る香りだった。いつも智美が愛用していたトリートメントの優しい香りだ。
鬼崎の家に泊まりにきた際、智美は必ず自分専用のトリートメントを持参していた。ベッドのなかで甘える智美の長い髪からは、いつもこの香りがした。懐かしい香りだ。そして大好きな香りだ。
「さとみ……。ご、ごめん……、ごめんよ。君から逃げてしまった意気地なしの男のことは早く忘れてくれ……」
いたたまれない気持ちになった鬼崎は、智美から渡された黒いカードを片手に、いそいそと店をでた。
心臓がばくばくと音を立てている。智美の姿が脳裏に焼きついて離れない。彼女のたたずまい、クセ、笑顔、怒った顔、拗ねてそっぽを向くいつもの仕草、そして彼女の口癖――「はっきりしてよ!」。鬼崎はいまもって智美の虜だった。
鬼崎は足早に歩きながら、智美から渡されたカードを眺めた。
黒いカードを裏返すと、そこには黒地に白い文字で「う」という文字が書かれていた。
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