金曜夜

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金曜夜

 何とか帰宅した俺は、シャワーを浴びることもできずにベッドに倒れ込む。  でも、眠ることは到底できそうになかった。  仰向けになって、枕元にある全ての元凶を睨む。 「……くそ」  結局のところ、七瀬がどうしてこの本を俺にオススメしてきたのかは、最後まで読んでもわからなかった。  ただ、七瀬オススメのこの本は、冷え切った俺を熱くさせてしまうほどに、俺の心を強く揺さぶった。  俺が被せた「彼女」という曖昧化した呼称を引きはがし、その下にある「七瀬」を露わにするぐらいには。 「はぁ…………最悪だよ」  最後まで読んでわかったことなのだが、田中先生の新刊は、結局はファンタジーだった。  それも、田中先生らしからぬ、たった一巻で全ての伏線を回収して大風呂敷を畳み切った快作だった。  内容は、大雑把に言ってこうだ。  一章から三章までは、それぞれ現代世界での恋愛模様が繰り広げられる。  この辺りは普通の恋愛小説と同じで、普通に幼馴染同士のベタベタの恋愛を読まされたり、片方が素直になれないけど結局はくっつくベタベタの恋愛を読まされたり、疎遠になった二人がこれまたご都合主義でくっつくベタベタの恋愛を読まされたりと、ハッキリ言って俺にとっては眠くなる話だった。  この時点での評価は最悪。  金と気力と罪悪感を無駄にすり減らしただけだなと思っていた。  雰囲気が変わってくるのは四章で、この章のヒロインには何でか知らないが羽が生えている。  まあ羽と言っても扱いはちょっとしたアクセントのようなもの――だったのだが。 「まさか……あんなことになるなんてな」  どうせちょっとしたファンサービスだろう、と思っていた俺を上から殴りつけたのが、続く五章と最終章だった。  五章はこってこてのファンタジー世界。  田中先生の長年培われた技術の粋を結集させた物語は、俺を興奮させた。  でも……最後の最後に、ほんのわずかな恋愛要素。これが恐ろしかった。  この小説は本当は短編集なんかではなく、全ての物語が繋がっていた。一つの大恋愛の果てとして。  五章が一番古く、一章が一番新しい話。  つまり、これまで読んだ物語はその全てが「巻き戻し」だったということ。  四章ヒロインの羽は、三章以前に遡っていくとその時々で姿を変えて徐々に小さくなりながら、全ての物語に出てくる「巻き戻し」の象徴だった。  七瀬と散々巻き戻すだの巻き戻せないだの口論した後に、こんな要素が込められた小説を読む羽目になるなんて、最悪の巡り合わせだ。  そして、続く最終章は、全ての話が繋がる未来の話のようでいて、過去の話のようにも見えるというレトリック。  もしこれが未来の話なら、これまでの幸せな物語は全部台無しになる。  でも、もしこれが過去の話なら、ベタベタで幸せな第一章が物語の結末になる。  そんな、結末を読者任せにした――――実に田中先生らしい、俺にとって最悪の物語だ。 「……はは」  見慣れたはずの天井の模様は、滲んでいた。俺は思わず泣いていたらしい。  一年以上、ずっと泣いていなかったのに。  俺は、この物語に、自分を重ねてしまっていた。  どうしようもない俺の、どうしようもない人生も、ハッピーエンドに続いてくれるんじゃないかって、そんなどうしようもない希望を持ってしまいそうになる。 「七瀬……」  そして、あれだけ避けていたというのに、愚かな俺は七瀬のことを考えてしまう。  あの日の七瀬の言葉。知らなかった七瀬の感情。七瀬の挑発的な表情。七瀬の涙。七瀬から受けた痛み。  指先に一瞬だけ感じた七瀬の――――胸の感触。 「――ぐ、ぎぎ」  自分の中に沸き上がったその欲望を、歯を食いしばって磨り潰す。  それを嘲笑うように、あまりにも身勝手で気持ち悪い俺の欲望は、ずっと守ってきた「七瀬」というラベリングを溶かし、その裏に隠された名詞を曝け出してしまう。  「紗花」。俺が、昔呼んでいた名前。  俺が、人生で一番呼んだ女子の名前。 「――――」  意識が巻き戻され、「はじめから」になる。  今の俺は、七瀬紗花と出会ったばかりの中学三年生。  いつものように友達と喧嘩別れをして、手持無沙汰を紛らわすために入った図書室で、一人で孤独に本を読む七瀬を見て、なんとなく気になった。  暇潰しに声をかけて、俺の言葉でいちいちビクビクする七瀬を変な奴だと思って、でも話しかけることはやめなかった。  七瀬が読んでいるのがたまたまラノベで、たまたま俺も読んだことのあるやつだったから感想を言ったら、七瀬がやけに食いついてきて。  話して、話して、話して。仲良くなって、七瀬は「紗花」になった。  俺と紗花はゲームで遊んだり、本を買いに出かけたりした。  紗花は友達との付き合い方がよくわかっていなくて、ときどき変なことを言うのがおかしかった。  そのうち、紗花は俺に心を開いてくれて、色んなことを教えてくれた。  色んな気持ち。色んな考え。そして、唯一の願い。  俺はそんな紗花に友達としてきちんと向き合いたいと思って、協力を惜しまなかった。  大変なことはたくさんあったけれど、七瀬との日々が楽しかったのは本当だ。  あの頃の俺は、確かに幸せを感じていた。  つまり、俺と紗花は普通の友達として日々を過ごして――そして、北雪学園への入学で、友達じゃなくなった。 「はっ。そんな綺麗なだけのもんじゃないだろ……」  そうだな。本当は、それだけじゃなかった。  こんな俺でも、紗花と恋人関係になることを夢想したこともあったかな。  一緒に遊んで、仲良くなるたびに俺の中で紗花が特別な存在になっていくから。  一生懸命トレーニングを続けて、綺麗になるたびに紗花を魅力的に感じてしまうから。  受験のために勉強を教えて、疲れてしまった紗花に毛布をかけながらその寝顔になんだかドキドキしてしまったから。  そうして、いつの間にか――俺は、紗花のことを恋愛対象として見るようになっていた。  あの頃の自分が本当に紗花のことを好きだったのかは、今ではもうわからないけれど。  「恋人の紗花」と、色んなことをしてみたいなとも思った。  紗花とデートの待ち合わせをして、ずぼらな俺が遅刻して紗花に怒られて。  でも、すぐに仲直り。機嫌を直してくれた紗花と手を繋いで、街中を歩いて。  ショッピングをして。食事をして。カッコつけて代金は俺が全部支払ったり。  他愛のないことを話して、お互いの将来について話して。  ふと、目が合うたびになんだか柔らかい気持ちになって、はにかんでしまったり。  夜になったら、俺か紗花の家で一緒の時間を過ごして。  本を読んだり、ゲームをしたりもするけど、やっぱり一緒にいられるだけで幸せで。  そして、雰囲気が良くなったら――  キスも、して。  誰よりも近い距離で見る紗花の瞳は、吸い込まれそうなほどに美しくて。  俺に寄り添ってくれる紗花は、今までに見たことないぐらい綺麗で、可愛い表情を見せてくれて。  ああ、俺の彼女は世界一だな…………そんな風に、舞い上がって。  そんな彼女を持てた俺は、世界一幸せで特別な存在なんだと、自惚れたり。  でも、そんなものは全部投げ捨てた。何もかも、全て。  日曜日にも。そして――母さんが家を出て行った、あの日に。  紗花を欲望の対象として見ていた自分に嫌悪を覚えた。  気持ち悪くて仕方なかった。  あの約束は紗花のためにしたと自分に言い聞かせていたけれど、本当は俺のためだった。  俺は、紗花から離れたかった。  紗花から、自分を遠ざけたかった。  だから、紗花は「七瀬」になった。  自身の皮膚という皮膚を爪で削り取って、この身体に流れている穢れた血を全て入れ替えたい衝動にだって駆られた。  でも、できなかった。俺はそこまでの蛮勇を持つことができなかった。  本当に俺はどうしようもない人間だ。  後戻りができない癖に、先に進むこともできない。  つまるところ、俺は永遠にケダモノってこと。  だってしょうがないじゃないか。  どんなに頑張ったところで、ケダモノは人間にはなれない。  始めから終わってるんだ、  俺は。そもそも生まれてくるべきじゃなかったのかもしれない。  そのくせ、自分で命を断つことだってできやしない。  だってこんなにも醜いのに、みっともなく、まだ生きていたいと思ってしまうんだから。  未来に希望を持ちたいと思ってしまうんだから。  ハッピーエンドなんて用意されてるはずがないというのに。  でも、こんなどうしようもない俺の人生に、何か一つぐらいは良いことがないかと、願うことがいつまで経ってもやめられない。  例えば……なんだろうな。  そう、例えば、七瀬と仲直りをするとか。  本当はさ。俺だって、七瀬と仲直りしたかったんだよ。  そうだな、どういうシチュエーションがいいかな。  例えばさ。昼休みに、中庭で友達の女子と楽しく食事をしている七瀬のところに、俺は声をかける。 『よ、久しぶり。ここいい?』  誰だよっていう周りの女子の視線を恥ずかしく感じながら、俺が見る七瀬は少しだけ困った顔をする。  でも、周りの女子に一言謝ってから、俺を受け入れて傍に座らせてくれる。  俺は、七瀬がまだ俺のことを覚えてくれていることが、嬉しくなる。  七瀬目当てで中庭に居座ってる男子の嫉妬の目。  俺はほんの少しの優越感を感じながら、それ以上に七瀬のことが誇らしくなる。  お前すごいんだなって七瀬に声をかけて、七瀬は心の底から嬉しそうに笑う。  俺が一番見たかった笑顔を見せてくれる。  そして、少しだけ昔話。それが終わったら、少しだけ今の話。  最近どう、とか。一年間なにして過ごしてた、とか。  周りの女子に、七瀬を取るなって睨まれながら、なるべく気にしないようにして。  でも、昼休みの時間はあっという間で。  もっと話したいのに、七瀬は俺の隣から立ち上がってしまう。  俺はそれがすごく寂しく感じられて、七瀬に追いすがってしまって。  また話しかけてもいいかな、ってみっともなく聞いてしまう。  七瀬はまた困ったような顔をしながら、意地悪なことを言って俺を困らせる。  それでも、七瀬は優しいから、最後には俺のことを許してくれて。  たったそれだけで俺は舞い上がってしまって、午後の授業はまるで頭に入らない。  今度は未来の話もしたいな。できれば、また遊べたらいいな。  いや、さすがにそれは無理か。今の七瀬は、学園のアイドルだもんな。  そんなことを考えて。そして――――  そんなものは、結局ただの反実仮想なんだと、全てを諦める。
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