仕事を辞めます

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仕事を辞めます

 首を絞められて、ハメ撮りされて以来、天外と文彰の関係は変わった。普段から、文彰にべったりと張り付いていた天外の束縛が、輪をかけて酷くなったのだ。  家に居れば、片時も文彰の傍を離れず、文彰のスマホをチェックする。仕事中、ひっきりなしに通知音が鳴っていたメッセージは電話に代わり、文彰が出ないと、家に帰ったら責め立てる。  文彰が少しでも不満な素振りを見せると、天外は泣き出してしまう。文彰さんのせいだよ。文彰さんが変な冗談言うから。文彰さんが……――文彰は疲弊していた。泣いて暴れる天外を抱きしめ、毎晩、狭いベッドで眠るのが日課になっていた。  泣きながら、天外は要求を怠らない。ベッドの購入は来月の連休に。マンションへの引っ越しは年内。結婚、新婚旅行、最終的には養子縁組の約束までさせられた。「はい」か「うん」の返事しか許されない文彰は、へらへら笑いながら応じた。  殺される恐怖から、「冗談」だと言ってしまったが、本当は一刻も早く、天外と別れなくてはならない。  マンションでは天外に責め立てられ、「出張」では、父親に遠回しに聞かれるのだ。ふみちゃん、息子とはお話できた? ふみちゃん、いつ息子と……ふみちゃん、ねぇ、文彰さんのせいだよ?ふみちゃん?文彰さん!ふみ、ふみちゃんっ―― 「はぁ……」  昼休み、文彰は天外の作った弁当をデスクで食べていた。十一月に入り、近くの公園で弁当を広げるには、厳しい季節になった。スマホは天外からの着信が鬱陶しくて、デスクに放り投げていたら、通知音がした。  着信音じゃない。画面を覗き込むと「天外さんからメッセージがあります」の文字。珍しい。最近は、電話で文彰の声を聴かないと満足しない年下からだった。  12:24  文彰さん、今からこっち来て  12:24  急な出張が入ったから、ホテルで会いたい  メッセージに続き、URLが張られていた。クリックすると、本社近くのビジネスホテルのサイトに飛んだ。短いメッセージから、天外が何を言いたいのか理解した文彰は、ショックで箸を落としてしまった。  12:30  無理だよ。昼休み、あと三十分しかない。  12:30  有休取って。会いに来て  12:33  そんな急に無理だよ  難色を示すと、天外からメッセージが止んだ。ニ、三分画面を見つめていたが、天外だった、すぐに返事がくる。諦めてくれた――ホッとして、落ちた箸を拾っている時だった。  通知音がして、画面を覗き込む。メッセージもなく、天外からURLが送られてきた。不思議になりながら、クリックする。埃をかぶった室内に「あんっ」と、甲高い声が響いた。 「文彰さんっ、ほらぁ、もっと股拡げて。突っ込んでるとこ、撮れないじゃん」 「てんがぃっ、お、おくっ、あたってるか、らぁっ」  見慣れたラグに押し倒された男は、だらしのない恰好をしていた。スウェットをめくり上げられ、口は半開きの状態で、視点が定まっていない。脱がされた下半身は、赤黒いペニスを突っ込まれ、泡を作っていた。  カンッ――スマホを落としていた。背面を向けたスマホから、声が漏れる。また機械音が鳴って、ぶるぶる震える手で、スマホを手に取った。  12:39  この前、同じ部署の人に文彰さんと付き合ってるって、写真見せたんだ。  12:39  別に動画でも良かったけど  12:40  文彰さんもいいよね? 俺たちもうすぐ結婚するから  12:41  この動画、俺はいつでも出していいよ  いいわけないだろう?!  思わず、画面に叫び声に浴びせていた。指が震えて、文字が上手く打てない。じれったくなり、通話ボタンを押した。 「――天外?!お前、なに考えてっ、」 「……早く、来て」  文彰の大声とは対照的に、冷ややかな声だった。返事ができずに固まっていると「早く」と急かされた。 「来て。俺、時間ないから」 「……おい、ちょっと、なぁ……」 「……俺は文彰さんと仲直りしたこと、凄く嬉しかったから、みんな見せたいんだ」 「……」  ハメ撮りされた動画には、天外の姿も映っている。流出したら、お前の立場も危ないんだぞ――文彰の指摘は無意味だろう。言葉通り、天外は流出しても構わないのだ。  文彰は言葉を飲み込み「分かったから」と諦めた。途端、相手の機嫌が良くなったのを感じた。 「待ってるね。文彰さん、大好きっ」 「……うん」 「ねぇ、文彰さんは?文彰さん、ちゃんと言って」 「……好きだよ。天外のこと、好きだから」  本心だった。ずるずると流されるまま付き合い続けたが――続いたからこそ、文彰も天外には情があった。それは章太郎の右手の傷から深まり、年下の男が愛おしくてしょうがなかった。  だが、天外の立場やバックグラウンドを考えれば、別れるのがお互いのためだった。そして何よりも、天外の寄りかかるような愛情が重い。ずっと傍にいれば、いつか文彰は窒息してしまう。  ぷつりと切れたスマホを、文彰はしばらく眺めていた。  …… 「じゃ、文彰さん。俺、仕事だから」 「うん」  ベッドに腰かけた天外が、うつ伏せになった文彰の額にキスをする。ネクタイをきっちり締めた年下の男は「お土産買ってくるね」とほほ笑んだ。 「金曜日には戻るから」 「いってらっしゃい」 「文彰さん、愛してる」  急慮、フィリピンに出張が決まった天外は、文彰と唇を合わせて、ホテルを出ていった。やっと呼吸ができる。ぱたりとドアが閉まった途端、文彰は息を吐いた。  昼休み、呼び出されたホテルに向かうと、部屋に入った途端、バックで犯された。ずるずるとベッドに引きずられて、二回目のセックスをすると、天外は手早く身なりを整えた。  枕に頬を押し付け、文彰はぼんやりとしていた。急に午後から有休を取っても、気にする者はいない。  腹が減った。シャワーを浴びたら、どこか適当に居酒屋でも入ろうか。最寄り駅は……ベッドに寝そべりながら、予定を立てていると、スマホが振動する音がした。  天外に剥ぎ取られたスラックスが、床に落ちている。拾い上げてポケットを探ると、画面には覚えてしまった電話番号が表示されていた。  どうして。  背筋が寒くなるようなタイミングに、文彰は震えた。 「……はい」 「ふみちゃぁん」  べちゃりと粘り気のある声に、文彰はどっと疲労を感じた。軋む体を摩りながら、上体を起こす。「ふぐでも食べに行こっかぁ」と機嫌を窺うような声に、うんざりした。 「あの、かいっ……章太郎くん、いま、その――」  疲れている。何とか断る口実を考えていると「お腹、空いたでしょう?」と言われた。 「何でもいいよぉ。何食べたい?食べたいもの、ある?……激しい運動して、お腹ぺこぺこだよねぇ、きっと」  含みのある言い方に、鳥肌が立っていた。あまりもタイミング良すぎる電話に、ねちっこい言い回し。まさか盗聴されてる……?すぐにあり得ないと、文彰は頭を切り替えた。 「すいません、あの……息子さんとまだ、……別れ話が、できておらず……ですから、あの今日のお誘いは嬉しいのですが、あの」 「――ふみちゃん。〇〇ホテル、迎えに行くからね」  電話口の猫撫で声に、文彰は項垂れた。どうしてホテルの場所まで知っているのか。そういえば、章太郎は時々、不可解な発言をする。天外との同居を詰り、ベッドでの体位を持ち出し、文彰を責めるようなことがあった。  混乱する頭で、ずるずるとシャワールームに向かった。文彰の機嫌を取るように、周囲をうろちょろする年配の男は時々、滑稽に見える。それでも圧倒的な権力者なのだ。文彰に断る権利はない。  情事の後を洗い流し、文彰は服を整えた。腰が重たくて、だるい。ずるずると壁に手を付きながらロビーに行くと、スーツ姿の男が、駆け寄ってきた。 「ふみちゃんっ!」  今日もスタイルの映えるスーツ姿の章太郎が、べたべたと文彰の両肩をさする。疲れて、作り笑顔もできない文彰は、ぼんやりと突っ立っていた。玄関近くに、確か吉野といった秘書の姿が見える。 「ん?どうしたの?どうしたの?ふみちゃん?」 「……っ」  周囲に章太郎との関係を隠したい文彰は、そっと距離を取った。だが文彰の顔が歪むたびに、章太郎は距離を詰めてくる。間近で穴が開くほど見つめられ、まともに息が吸えなかった。 「……あ、ちょっ、と……」 「ん~?」  ぐいっと尻を掴まれ、乱暴に揉まれる。ランクは高くないが、オーソドックスなビジネスホテルのロビーには、人がたむろしている。ショックで文彰は、呼吸が止まった。 「しょ、しょうた、ろうく、んっ」 「うん?うん、うん、ん~、可愛いお尻だねぇ」  章太郎は尻をやわやわ揉み込むと、臀部に指を這わせ、割れ目をしつこく弄りだした。この人は何をしているのだろう。高みに上り詰め、マスコミに賞賛される権力者は、周囲が見えていないようだった。 「章太郎くん……あの、ご……ご飯、食べたい」  真っ昼間から、下半身を弄ってくる男に、文彰は涙目で訴えた。人目のつかない場所に行きたい。本音は章太郎の誘いを断りたかったが、ずるずると腕を取られ、車に乗り込んだ。  店に到着する間、車内は地獄だった。ぴたりと太ももを横につけ、章太郎はべたべたと下半身に触れた。スラックスの上から股間を弄り、胸の辺りをワイシャツ越しに弄(まさぐ)る。  声を必死に抑えていると、車が料亭に着いた。前回とはまた違う、重厚な造りの宿に引っ張られ、離れに案内される。章太郎は秘書と従業員をさっさと追い出すと、文彰を畳に転がした。  怯えた目を向ける愛人を四つん這いにして、下を脱がせた。 「ほらぁ、ふみちゃん、お尻、お尻出してねぇ」  背中から腕を回され、かちゃかちゃとベルトを外される。文彰は体を震わせるだけで、抵抗できなかった。ずるりと、下着はスラックスと一緒に脱がされた。  都会の喧騒から離れた個室で、尻を突き出す格好になる。くちゅりと水音がして、尾てい骨から痺れが走った。 「おぉ、柔らかい、柔らかいっ」  背中からはしゃいだ声がして、文彰の口から小さな悲鳴が漏れた。 「――あっ、の」  ついさっきまで、天外を咥え込んでいた口に、章太郎の指が入り込んでいた。太くて骨ばった指が蠢き、くちゅくちゅと卑猥な音を出す。  遠慮もなく指を突っ込まれて、文彰の背中はくの字に曲がっていた。 「しょ、しょう、たろぅくんっ」 「ここにさっきまで、息子を咥え込んでたんだろ?どうだった?あいつの具合は?」 「――っっ」  指を増やされ、中で拡げられる。くちくちと内壁が広がったかと思えば、反発するように、指に絡みつこうとする。いじめるように、指を抜き差しされ、文彰はすすり泣いていた。 「ふみちゃんは悪い子だねぇ、他の男に絡みついて、すぐにお尻を振るんだから。ふみちゃんは悪い子だよ、悪い子」 「ご、ごめん、なさいっ……あっ」  ぐぐっと中で内壁を押される。浅い部分を刺激されて、尻が動いていた。さっきまで、猛った男根で奥まで突かれていたのだ。指の刺激ぐらいでは、物足りなかった。文彰をいたぶる指で中を掻き回されるたびに、尻の狭間から水音がした。 「男だったら、誰でもいいんだよねぇ?ふみちゃんは」 「ち、ちがうぅ――っ」  早く入れて欲しい。口には出せずに、尻をもじもじしていた。尻を指にこすりつけるようにすれば、奥に届きそうな気がする。それなのに、すぐ指は引っ込んで、浅いところばかり弄るのだ。  文彰は発情した動物のように、尻をかくかく揺らしていた。  ちょうだい、ちょうだいっ!  肌を赤くし、章太郎に向けて尻を懸命に振る。文彰の痴態に、章太郎はやに下がっていた。 「ふみちゃぁん……なに食べたぁい?」  くっと指で、内壁を押し上げる。快楽に溶けた背中が、ぐにゃりと力を無くしたように、折曲がった。 「あっ、あっ、しょ、章太郎くんのちんちんっ、食べたいっ食べたい! いっぱい食べさせてぇっ!」 「ふみちゃんは食いしん坊だねぇ」  章太郎はベルトは緩め、痛いほど張り詰めていたペニスを解放してやる。男を際限なく欲しがる孔。期待からひくつかせるそこに、亀頭をあてがうと、可愛い愛人が嬌声を上げた。 「ほーら、いっぱいお食べぇ」 「あ――あぁっん」  溶けてひくついた内壁に、剛直が捻じ込まれる。文彰は四つん這いになり、口をだらしなく開けていた。 「あぁ、あ――、かたぁい、かたいよぉ」  今か今かと男を待ちわびていた孔は、章太郎に絡みついていた。離すまいと締め付ける孔に、章太郎は呻き声を上げる。ぐっと推し進めると、掴んでいた腰がしっとりと汗を掻いていた。  きっとこんな風に尻を振って、天外を離さなかったのだろう。燃え滾る嫉妬から、息子に征服された体を、章太郎はいたぶることに決めた。 「ふみちゃんっ、そんなに締め付けないでくれよぉ――物足りなかったのかな?」 「ぁあっ、お、奥ついてぇ、ガンガンしてぇっ」  柔らかくなった秘所を堪能しようと――章太郎はゆっくりと腰を使っていたが、文彰は我慢できなかったらしい。激しく尻を振って、章太郎におねだりをしていた。 「どっちがいい?ふみちゃんっ、あいつとどっちがいい?んん?」  奥を突いてと、文彰のおねだりを無視して、章太郎は問いかけた。ゆっくりと抽挿に間隔を開けて、腰を揺する。文彰は畳の上で体をくねらせていた。 「しょうたろうくんっ!――っしょうたろうくんがぁ、好きぃ、好き!」  ご褒美のように律動を送り込まれ――口から涎を垂らしながら、文彰は体を戦慄かせていた。 「あっ、あぁ――っ、しょ、しょうたろう、くんっ、もっとぉ!もっとぉ!」  章太郎にピストンされるたびに、全身から汗が噴き出す。下の口も同じように、だらだらと涎を垂らしていた。  硬い陰茎に、肉を抉られ、内臓を押し上げられる感覚。文彰は甲高い嬌声を上げた。もっと、もっと欲しい、欲しいと言えば、男は文彰の欲しい物をすぐにくれる。 「しょうたろうくんっ、だいすきぃぃ!」  引き抜かれて内壁が寂しくなれば、ぐっと串刺しにされる。文彰は歓喜に打ち震えていた。  ……  ごろりと畳に仰向けになった文彰は、じっと天井を見つめていた。繊細な模様が彫られた竿縁が、この部屋のグレードを表している。目がぼやけて、温かいものが目元を伝っていた。 「……っう」  赤坂の料亭で、文彰は体を丸めた。膝を抱えて、声を押し殺す。セックスが終われば、先のことを考えて、虚無感に襲われる。  猛烈に、一人になりたくて顔を埋めていたら「どうちたのぉ」とべたついた声が降ってきた。 「ふみちゃん、お腹痛い?ぽんぽん、くるちい?……まさか、ふぐに当たった?!」  帯を締めた章太郎は、文彰ににじり寄ると、背中を擦った。胸元に手を入れたくなったが、「可愛いふみちゃん」が泣いているのだ。動揺しながら、文彰の周りをうろついていた。 「だ、大丈夫、でっ、で、す!」 「本当?本当?大丈夫なの?……次はあったかいものでも食べようかぁ。金目鯛のしゃぶしゃぶなんてどうだぁ」  章太郎が「次の」話をすることが耐えられなかった。天外とも別れられず、章太郎にも呼び出される状態は先が見えない。  重たい体を起こして、土下座をした。 「ふみ?ふみちゃん?どうしたのぉ?」  足元に平伏す文彰の頭を撫でる。髪を指で梳いながら、「どうしたんだぁ」と甘ったるい声を出した。 「息子さんと、て、てんがいさんと別れ話が、上手くいってっ、おらずっっ」 「うん?うん」 「……仕事をやめます。息子さんの前から姿を消します。だから、だからっ、こういう関係も終わりにして、したいんっです」  文彰は章太郎の足に縋り付いていた。咄嗟の思い付きだったが、口にした途端、現実味を帯びてくる。だが、43で役職もない文彰が再就職するのは難しいだろう。最悪、バイトか日雇い生活……それでもいい。悠々自適な定年後の生活から遠ざかるが、香園親子と縁を切る方が何倍も良い。  額を頭に擦り付けた。 「もう二度と、息子さんと会いませんっ、お願いします! 息子さんと接触しません、だからっ、――っ、かいちょ」 「ふみちゃん?」  べちゃりと粘り気のある声で、名前を呼ばれる。文彰は恐々と顔を上げた。三日月の弧を描いた瞳。にーっと、曲線を描く口角に、文彰は鳥肌を立てた。 「会長、じゃないだろぉ?……しょーたろーね、いつも名前を呼びながら、腰を振ってるじゃないか」 「すいませんっ、すいません!」 「ん?なんて言うんだ?ふみちゃん」 「……しょうたろうくん」  名前を口にすると、ご褒美のように髪をくしゃくしゃにされる。手に力を込められて――文彰は恐怖から、体を震わせていた。 「仕事も辞めると?」 「は、いっ……あのっ、はい!やめますっ、もう二度と、会いません!引っ越しもしますし、ご迷惑になることは一切しませんっ、本当です!だ、だからっ……天外さんに、わ、私がいなくな、なっても、そ、そそれとなくフォローと言うか、そ、そのその、天外さんに、見合い相手を紹介して、てっ、私を忘れさせてほ、欲しいと言いますかっ」 「……」 「すいません!すいません!ず、図々しいのは承知で、でです、すいませんっ、すいません。でも、でも私のことを忘れさせるには、こ、これがい、一番、最良な方法ではっとっ!」 「そう……」  権力者にひれ伏しながら、文彰の頭は天外でいっぱいだった。謝罪を口にするだけ、罪悪感で吐きそうになるのを堪える。 「すいませんっ、すいません……」  天外が一般的な家庭の子で、見合いなど勧められる立場ではなかったら、付き合っていた。もっと穏やかで、愛情深い性格だったら交際を続けていた。  しょうがないだろ。  畳に頭を押し付けながら、文彰は下唇を噛んでいた。 「――この関係を辞めたいと?」 「すいませんっ……っ、息子さんと、息子さんと別れますから!」 「そうかぁ」  場違いなほど、朗らかな声だった。機嫌がいいのかと、文彰が勘違いしてしまうような笑顔だった。 「この出張を終わりにしたいんだね?」 「ぁの……すいません」 「もう私には会いたくないんだね?」 「……ぅっ、すいませんっ」  天外のことなどそっちのけで、章太郎はしつこく「出張」の確認をする。笑っているのに、声に湿度が増しているようだった。 「おいしいもの、食べたくないの?まだいっぱい、あるんだよぉ」 「……すいません…」 「それともなんだい、欲しい物があるのかい?もっと時計が欲しいの?靴?スーツ?あ、車もいいなぁ」 「……ごめんなさぃ」  文彰は謝り倒していた。「お小遣いが欲ちぃのぉ?」と、畳に押し付けた顔を覗き込む殿上人に――泣き顔を見られまいと、ぐりぐり額をイ草に押し付けた。  天外への罪悪感が、涙と一緒に零れ落ちていた。 「お小遣い、ね。お小遣い上げようかぁ……いくら欲しいぃ?」 「ごめんなさぃ……」  権力者を怒らせまいと、泣きそうな声で謝罪を繰り返す。なんとかこのままやり過ごせば、いずれ来る破綻は避けられる。天外のことで頭がいっぱいの文彰は、章太郎の異変に気が付かなかった。 「おかしぃねぇ」  ――引きずり倒してやろうか。  章太郎は怒りと焦り、混沌とした感情を表に出すまいと、息を吐いた。怯えた目でこちらを窺う男が可愛くて憎らしい。脅しで首を絞めてやろうかと一瞬、指が動いた。天外に首を絞められて、死にかけた文彰。苦し気に手足をばたつかせる映像を、章太郎はオカズにしていた。 「……ぁ、あの」 「セックスの時、嬉しそうに腰を振ってるのは誰だ?『しょーたろう君、しょーたろう君のおちんちん入れてぇ、食べさせてぇ』……言ったのは誰だ?」 「……ご、ごめんな、さいっ、ごめんなさぃ」  最中を蒸し返すなんて、ご法度だ。文彰は顔から火が出そうだった。章太郎の言う通り、セックスには夢中になる。本音は年上の男とのセックスが好きだ。早急な天外よりも、全身を弄り回して、時間をかける章太郎の愛撫に、息が上がる。  だから……このまま関係を続けていたら、破綻する。  ズブズブと嵌る前に、逃げ出さなくては――天外の顔が浮かんで、胸を掻きむしりたくなった。狭いベッドで眠る横顔、文彰より早く起きて、弁当を作る笑顔、泣いたり、怒ったり、ころころと表情が変わる。  文彰は天外が愛おしかった。だが一抹の情も、殺されかけた事実の前では、あっけなかった。  逃げなくては――このまま天外の前から姿を消す。そうすれば、天外もいずれは文彰を忘れて、同じ年の恋人を作り、家庭を築いてくれるはずだ。章太郎の同情を買いたい気持ち半分、残りは天外を想い、涙を流していた。 「ごめんなさい……ごめんなさい」  誰に謝っているのか。文彰は畳に顔を押し付けていた。次々と、天外との思い出が浮かぶ。出会った新卒の頃、帰りがけ一緒に寄ったラーメン屋、そして夜食を作ってくれた……章太郎に食べさせられる高級な食材よりも、天外の作るお茶漬けが好きだ。もしこのまま――本当に何事もなく、穏やかに時間が過ぎていたら、老いて死ぬまで一緒にいたかもしれない。 「わ゛、わ゛かれ゛、ま゛すっ、のでぇっ」  泣きじゃくる文彰の頭を、章太郎は優しく撫でた。もう「真摯な気持ち」は使えないし、時計も、食事も、そして小遣いも拒絶された――離れたがる愛人をつなぎとめようと、狡猾な男は、頭を巡らせていた。  章太郎は今まで何人ものライバルを蹴落とし、高みを目指してきた。私利私欲が蠢くビジネスの世界で、政治力を培ってきた男の前で、文彰など赤子に等しいものだ――老獪な男は、泣き顔を晒す愛人を舐めるように見た。 「ふみちゃぁん」  どうやって手中に収めるか。もう二度と、別れを切り出さないようにしなくては。 「ご、ごめんっ、なさぃっ」 「いいんだよぉ、いいんだよぉ、息子と別れたいんだねぇ……あいつは父親の私から見ても異常者でね、しつこい性格をしてるよぉ」 「……」 「姿を消しても、探しだそうとするだろうねぇ……私が協力して上げるよぉ」  涙で頬を濡らした文彰が、そっと顔を上げた。すすり泣くだけだった男の目に、媚びるような、期待するものが混じる。  時計だスーツだの、貢ぐだけの年配を利用する気らしい。言葉に出さずとも、長年、人を見てきた章太郎の前では、文彰の下心は隠せなかった。  詰めが甘くて、浅はかで、短絡的な男――全てが可愛くてしょうがない。章太郎は我慢できず、文彰を畳に押し倒していた。  唖然とする顔を掴み、べろべろと犬のように顔面を舐める。章太郎の下で手足をばたつかせる男の耳に舌を突っ込み、まつ毛の先に溜った涙を舐め取った。しまいには眼球まで舐めると――バタバタ動いていた手足が、ぴたりと止んだ。 「あっ……ぁ」  べろりと生暖かい感触が神経を伝って、文彰の脳を犯す。脳髄まで舐められる錯覚に、文彰の体は動かなくなった。 「あ……ぁの」 「っん、うん、うんっ……私がね、引っ越しの手配なんかも、うんっ、してあげるから、そうしようっ、うん、名案だなぁ」 「……――っ」  章太郎はべろべろ舐め尽くして満足すると、逃亡の手筈を聞かせた。仕事は知り合いの会社を紹介する。地方の小さな会社、拠点を移すマンション……引っ越し当日は、天外に海外出張を入れておくからね…… 「い、いいんですか?!」  文彰は舌のおぞましい感覚も忘れて、章太郎を仰ぐように見た。今度は違う涙が、ぽろぽろと溢れていく。ずるずると体を起こし、再び土下座をした。  これで、全てが終わる。 「あ、ありが、とぅっ、ございます!」 「でもまぁ、なんだぁ、こんな終わり方は寂しいじゃないかぁ」 「……はい」  平身低頭に、章太郎の機嫌を損ねまいと何度も下げていた頭を、そろそろと上げた。うっとりと目を細めた章太郎が「別荘」と言った。 「山梨にね、香園家の屋敷があるんだ。別荘代わりでね……最後の一週間、そこで過ごそう?二人っきりで……お別れぐらい、させてくれないのぉ?」 「は、はい!もちろんですっ!お、おお付き合いさせて頂きますっ!」  これで、全てが終わる。天外に怯えることも、章太郎の煩わしい呼び出しにも応じなくて済む。  あんなに靄がかかっていた頭がすっきりとしていた。心なしか、体まで軽い。 「ゆっくりしよぉ、ねぇ」 「はい!はい!お供致します!」  上品そうに、ゆるく口の端を吊り上げる男が、神様のようだった。慈愛に満ちた微笑に、文彰の涙は止まらなくなっていた。
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