彼女の居場所

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「ねぇ、どこか遠くに行こう……」  雨は止まない。  太陽も昇っているのかさえ怪しい。  薄暗く無機質な様相の部屋で、奇跡を希求するかのように呟いた。 「えっ?」 「……二人だけでさ、もう誰もいないところへ」 「ゆ、いさん……」  彼女を抱きしめる手に力を入れた。二人でこうして寄り添っていなければ立っていられない心地だった。  彼女のぬくもりが、柔らかさが、小ささが、茶色のサラサラな髪の毛が、皮膚と服を隔てて感じられる心臓が、それだけが頼りだったのに……  彼女は私の体を引き離した。両手を私の胸に当ててグイと押し引き離した。 「…………」 「……優衣さん」 「未希……未希まで私を裏切るの!?」 「……」 「ねぇ……なんか言ってよ」 「……そんなこと言わないで」弱弱しい声だった。そして、何か悩まし気に考える様子を見せた後、それはそれは強い瞳で私を見て、言った。「裏切るわけない。絶対」 「あの、紺色の傘…………前に付き合ってた人からの、贈り物だったの」彼女は傍にあったベッドに腰かけると、玄関の方を見つめて話し出した。「その人は……あの日、私たちが出会ったあの日……」彼女の天使のような声がゆっくりと放たれた。「死んだの」  彼女が話し始めたその言葉を聞いて、私は力が抜けたように彼女の隣に座った。私の激情が少しずつ霧散され鎮まっていくようだった。 「正確にいうと、あの日死んだということを知ったの。……優衣さんと雰囲気は違うんだけど、寝顔がどことなくそっくりだったから……次の日、目が覚めたら隣に優衣さんがいた時、すごくびっくりして、幽霊かと思った。でも、すごくうれしかった。…………彼女もね、二人で逃げようって、わたしに言ってくれてた」 「未希……」 「でも、わたしは裏切られたと思って、酷い言葉で彼女を責めて……」  彼女の細くて華奢な指先がぐっと握られて、何か感情を露わにするようだった。その手を私の手のひらで包むと、その体温は血の気が引いたように冷たかった。 「わたしの、母は優しくていつも笑っていて、わたしを愛してくれた人だった。でも、わたしが子供の頃病気で亡くなって、父はわたしが中学に上がる時に再婚したの。新居の近くに白くて大きいお城のようなお家があってね、あの傘をくれた彼女は、そこのお姉さんだった。彼女と、再婚した母の子供つまり義理の兄が同級生だかで、家族ぐるみで交流があったからか、何度か遊んでもらってた記憶があったの。それで……大学卒業して、社会人になって、わたしが一人暮らしを始めたての頃、偶然、彼女に出会ったの。大人になってから会った彼女は、繊細で、か細くて、綺麗だった。付き合うことになって。……わたしは物心ついた時から女性が好きだったし、彼女もそうだと言ってわたしを好きになってくれた……。その、偶然再会した時、雨が降ってたんだ。わたしは持ち合わせが無くて、その時声をかけられて、あの傘を貸してくれた。わたしがそれを気に入っちゃって、もらったんだけど…………。彼女がいなくなってからも、あの傘を差していれば、いつかまた、……わたしを見つけ出してくれるんじゃないかって……」 「……いなくなったの?」 「うん…………。再会した時には、実は彼女、もう結婚してたの。わたし知らなくて。初めてそのことを知った時、打ち明けられた時、彼女もたぶん何かあって追い詰められていたみたいで、一緒に逃げようって言われた。でも、……不倫だったということも、嘘をつかれてたということも、……その時は全部どうしても許せなくて、それに、逃げたところで結局どうにもできないと決めつけて、それで…………」  言葉を詰まらせた彼女は、苦しむように眉間に皺を寄せて「酷い言葉をたくさん言ってしまった」と言って続けた。 「これは後から聞いた話だったんだけど……彼女の、その結婚相手っていうのがどうやら国会議員の人だったみたいで、歳も随分離れてて、親ぐるみで、望んでもいなかったみたいで…………彼女にひどいことを言った次の日、冷静になって謝ろうと思ったら、電話もメールも、もう繋がらなかった。一度、彼女の実家の、その大きな家にも行ったけど、誰も出てくれなかった。……何も言わずに彼女はいなくなって、これで良かったとも、全部わたしの所為だとも思った」 「…………」  未希は顔を伏せて弱々しく呼吸をしていた。 「わたしがどうすれば正解だったのか、わからない……。だけど、優衣さんに出会って、好きになれて、もう次はだれも傷つけないって決めたの。優衣さんも、絶対一人にしない。でも……でも……。二人だけの世界で、なんて間違ってる。確かに同性愛は、否定されることの方が多いけど、だけど、今度こそ、真っ当に幸せでいられる方法を探したいの……偽らないで、諦めないで。理想だけど、奇跡なんかじゃないと、わたしは思ってる。優衣さんと、優衣さんとのこと、そうやって考えていきたいのーー」  そう言うと、彼女の瞳から涙がとめどなく溢れていって、ギュッと胸の中に抱きしめるしかなかった。  いつの間にか、雷は通り過ぎていき、静かな雨が何かを洗い流すように降っていた。  泣き疲れた彼女が寝息を立てるのを耳にしてから、私も目を瞑り眠った。  目覚めると夜だった。  雨は上がっていたのに、彼女とあの傘だけは消えていた。
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