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人生二十九年目を迎えた。高田優衣(たかだゆい)、それが私の名前だ。
私の人生はいつもどこか他人事であった。一般的な社会人の例に漏れず、「はい」と言って従うのが得意だった。どんな時にも、わずかに濁った薄いフィルムが私の周りを覆って、それに反射して映るのは、ぎこちない私の姿だった。
首元をくすぐるナチュラルボブに暗めのブラウンカラー。ヘアサロンでの注文は、いつから変わっていないだろう。
大学を卒業後、新卒で入社した会社で働き続け、今では仕事も板についたものだ。曲がりなりにも役職がついて、任される仕事の責任も増えた。それと比例するかのように、日々に真新しさは消えていった。本当の挑戦もほとばしる血潮もない。大概の答えは今まで開けてきた引き出しの中に、既に整えられているものだ。それに少しだけ手を加えて、美味しくしてやればいい、そう思って過ごしていた。
むき出しの外階段の鉄骨は、錆びてところどころ赤茶色だ。カンカンとヒール音をさせて、毎日このアパートの階段を昇り降りする。六畳一間のオートロックもなければ浴室乾燥機もない。昇進したところで、未だにこんな部屋で寝起きしている。これ以上生活水準を引き上げることに、私は、心のどこかで危惧しているのだろう。
先日、高校時代の親友が結婚した。三十歳を目の前に。「結婚」の言葉ほど、私を憂鬱にさせる響きはない。親は婉曲した言葉を駆使して私に尋ねる。「いつ結婚するのか」「子供はいつ産むのか」と。この歳になれば、それらに対していくつかの回避術を覚えるものだ。表面上はそうやって事なきを得るのだが、きしきしと、そして着実に、心が蝕まれる。そのことに満を持して気がついた時には、抵抗する術すら失ってしまっているものだ。
日本国憲法第二十四条には、こう書いてあるらしい。
「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。」
両性の合意ーーそれはつまり、女の私が女性と結婚することはできないということ。
そのことに抵抗を示したことなどなかった。なぜなら私は「普通」を欲していたからだ。
クラスの中で誰が好きかと聞かれたら、無難な人気者を指名した。バレンタインに幼馴染への健気なチョコレートを作れば、親は喜んだ。好きだと言われれば、これが「好き」なのだと納得することにした。心はもとより、体にも価値など見出しはしなかった。
だから、こんなことは全て嘘だ。教室の窓際で静かに佇む友人の横顔を、気づかれないようにそっと見つめたり。バレンタインに友チョコだと念を押して渡す、その感覚が忘れられなかったり。ある一人の友人の気持ちを、独り占めにしたいだなんて望んだり。心を寄せた愛おしい人のぬくもりを抱き眠る夜も、目覚めた朝さえ、全て。
嘘。私の全ては嘘である。身も心も、脳みその皺の奥底まで。どこまでも嘘に浸りきっている。愛想笑い、取り繕った答え、展望などない夢。社会の中で「嘘」は、ある意味正しさをまとって堂々と存在しているのだ。
それでも、どうして?
人の衝動は、奇跡なんかを切望してしまうのか。
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