31人が本棚に入れています
本棚に追加
寝起きの体は憑き物が落ちたように軽やかだった。
隣で眠る、昔の恋人と似た寝顔をしている彼女を見つめると、起こさないようにゆっくりと立ち上がった。
首を振って自分のバッグを探した。
中からスマートフォンを取り出そうと手を入れると、スマートフォンともう一つ、馴染みの革のさらりとした凹凸が指先をかすった。
ブルーグレーの小さな手帳。
この一番後ろを開いた。
手帳と上品な革のカバーの隙間に、一通の白い可憐な封筒がある。
レースのような模様のエンボス加工がなされた裏面が見えていて、そっと指でつかみ、引き出すと、紙が擦れる心地よい音がした。
表にはこう書いてあった。
ーー未希へーー
彼女が亡くなったと聞いた次の日、実家のポストに届いたものだった。宛先もなくただ名前だけが書かれたその繊細な封筒が、あまりにも彼女らしくて、これはきっと遺書なのだろうと、ずっと開けられずにいたものだった。
ベッドの中で安らかに寝息をたてる優衣さん。
今なら、開けてもいいような心持ちになった。
そして手紙には、『彼女の居場所』が書いてあった。
東京都世田谷区用賀――
天国なんかじゃない、こんなに近くにいたなんて、信じられなかった。手紙に書かれた電話番号を押す。そのことに何一つためらいがなくて、自分で自分に驚いた。長いコールの後「はい」と出た彼女の声は、頭の中で何度も反芻していたものよりずっと、力強かった。
夢の中にいる優衣さんを起こさぬようそっと玄関を出た。雨上がりの夕焼けは、黄色から赤紫へ大いなるグラデーションを携え、雲の陰影は、言葉にならない美しさだった。
涙をこらえ、あのネイビー色の凛と立つ傘を手に取ることも、忘れはしなかった。
用賀駅に着くころには、すっかり辺りは暗くなっていた。
待ち合わせの北口には、大きなすり鉢状の石の階段が広がっていた。
階段を上りきった先に、一人の人影が見える。
長い後ろ髪がサラサラと風に揺られ、くるぶし丈のスカートがふわりと靡いていた。バッグの中からスマートフォンを取り出し、まだ眠っているかもしれない恋人へメッセージを送ってから、知ったばかりの番号を鳴らす。
人影の彼女は、手持ちの小さなバッグを開いてスマートフォンを耳に当てた。
「…………みき?」
階段を一段、二段、徐々にスピードを速めて上る。
その足音に気が付いて、振り向いたその人の横顔は、微笑んでいた。
「久しぶり……幽霊さん」
最初のコメントを投稿しよう!