彼女の居場所

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 ひらひらと舞う指先ほどの花びらが全て地上へとたどり着いた。  見上げていた桜がいつの間にか新緑へと変わっている様な、ある春の夜。  しとしとと静かに降る雨は、肌寒い風を遠くの方から運ばせる。落ちた水滴は動かないようで常に変化しながら、ありふれた街灯の光をきらきらと輝かせた。  金曜日の夜十時。消費財メーカーの販売促進部に在籍する私は、週明けから行われるイベント準備のため、この時間まで残業をしていた。疲れたが、やりきった清々しさが身体全体を心地よく包み込む。陽気な酔っ払いがまばらに乗車していた夜の地下鉄を自宅最寄駅で降り、足早に地上出口へと向かった。  会社を後にした時はかろうじて持ちこたえていた分厚い空は、冷たい雨を降らせていた。  しまった、傘がない。  次々と傘をさし方々に歩いていく多くの見知らぬ人の背中を見送りながら、地下鉄出口の階段を登りきったところで、私は立ち尽くしていた。  どうしよう……。ここから家までは歩いて十分。如何せん遠い。そうだ、近くにコンビニがあったはず。仕方がないが、そこで傘を買おう。曲がって信号を渡ったところ、一分も歩けば着く。  そう決意を固めたところ、私と同じように、雨と屋根の際に立ち尽くす、一人の姿を見受けた。雨粒を超えて、遥か彼方を静かに見据えている。形容しがたいその神妙な表情は、私の瞳を捉え……わずかに時を止めるかのようだった。  彼女は、二十代半ばのようで、柔らかく整ったかわいらしさをまとっていた。細いベルトの小さなショルダーバッグを肩にかけ、女性物の細長い上品な傘だけ持って、静かに佇む。傘を持っているのに、なぜ立ち尽くしたままなのか?そんな疑問が意識と無意識の狭間を彷徨うように現れる。静かな雨は、屋根の内側に小さな雫を届けている。傘を持つ彼女の右手は、雨と街灯の煌きを受け、雨粒は弾けた。視線を彼女のその白い指先から離して上げると、彼女はこちらを向いていて、互いの視線が交わった。ごく短い瞬間的なときめきのようなものが、彼女の大きな瞳の中に映った。  他人に介入してしまった気まずさから、私は慌てて「あっ」と目をそらした。 「傘……いりますか?」 「……えっ?」  予想外のことに彼女は口を開いた。  この瞬間、足を止めているのは私と彼女だけだ。だから、その言葉は私に向けて投げかけられたものだと気づいてしまった。思いも寄らずかけられたその声は、彼女の見た目通りの響きだった。彼女は遠い先をもう見つめてはおらず、現実を取り戻していた。一歩、近づいてきた。ほんの少し右手とともに傘を差し出した。その手は冷たそうだ。そして繊細な感じがした。  …………私がしばらく受け取らない様を受けて、彼女は差し出した手を切なそうに下ろした。 「……持っていなさそうだったので」 「あっ、いえ、でも……大丈夫です」 「……」  再び顔を見合わせると、彼女はまっすぐ澄んだ瞳で何か言いたげに閉口していた。私から目を離す気はないらしい。初対面の人に向ける態度としては、不躾なほど、切実な様子だった。 「でも、あなたも……困るだろうし」 「いいんです……もう」  彼女が黒目を下げて悲しげな顔をするものだから、どうにも突き放すことができなくなった。  沈黙の背景に、雨音だけ美しい旋律のように流れていた……。  雨粒に当たらなくて良いし、無駄な買い物もしなくていい。そういう理由を見つけると、彼女の手を取る気になった。もしかしたら、望む何かを手に入れられるのかも? そんな心の好奇心が、私をそうさせたのかもしれない。 「じゃ、じゃぁ途中まで。あの、お借りしても……いいですか?」 「…………」 「あーあの私、家こっちなんで、もしあなたが行く方向一緒なら、その道まで……」  彼女は少しだけ思考した後、こくりと頷いて続けた。 「すみません、突然話しかけてしまい……」 「いえ、私も助かります」そう言うしかなかった。  そして彼女は、手に持った傘を私に向けて突き出した。面食らいながらもそっと受け取ると、程よい重量感が手のひらを満たし、私はほっとした。その傘は、細く長い持ち手をしており、そっと開くと、十六本骨の上品でシンプルなネイビー色の傘だった。細い二本の白い線が縁の近くにはしっている。目立つ汚れはないが、新品のようなハリもなかった。きっと、丁寧に使われてきたのだろう。 「あの、こっちで大丈夫ですか?」  私が尋ねると、彼女は再び小さくこくりと頷いた。進む先を確認するように足元を見ると、パンプスのつま先が濡れていた。背中を押された気がした。意を決して一歩踏み出すと、滴が傘に当たる繊細な音が響く。一つの傘に彼女と私。無言を貫く彼女に対し、「ちょっとやばい人だったかな」と思いながらも、柔らかで無害そうで切なそうな雰囲気がひしひしと伝わってきたから、無下に扱うことはできなかった。  歩き出すと、七センチのヒールを履いた私とバレエシューズの彼女の間には、最も心地よい身長差があることがわかった。彼女が雨に濡れないように、それだけがずっと気にかかっていた。反対側に肩掛けた仕事用のバッグはきっとびしょ濡れになっていることだろう。彼女の歩幅を守りたい気遣いから、いつもより少しゆっくりと歩いた。  三、四分無言のまま歩みを進めた頃、さすがの気まずさと、ふつふつと湧き上がる興味から口を開いた。 「あそこで、誰か待たれてたんですか?」 「えっ?いえ…………そうではないんです……」 「なんかご迷惑じゃなかったかなってーー」 「いえ……」遮るように彼女は答えた。 「……とりあえず、私の家向かってますけど、あの、違う方向になったら、言ってくださいね」 「ありがとうございます。助かります」  雨の中、彼女の声は消え入りそうな様子だった。どちらが傘を借りたのかわからなくなりそうな会話に、今が一体どんな状況なのかさえ、見失ってしまいそうだ。次に話すべき都合の良い言葉が見つからず、そのことに恐怖と恥ずかしさがこみ上げた。結局それからは何も話せなかった。彼女も自分のことを明らかにするつもりはないらしく、心淋しい様子が冷たい春の雨と限りなく似ていた。  アパートが見えてきた。  二階建ての白いはずの外壁は月明かりに薄く照らされてぼんやりしていた。だんだんと存在感が増してくる。よかった、現実だ。傘を持つ手を握り直した。流石にこのまま自室の目の前まで行くことには抵抗があり、ここで別れることを決めた。 「あの」そう言って一、二歩歩きながら止まった。「私もうここで大丈夫なので……」 「…………」  借りた傘を手渡そうとしたものの、彼女は硬直して受け取らない。こちらの声も聞こえていないかのようだった。……まいった、どうしたものかと考えていると、これまでで一番力強い声が耳に届いた。 「よかったら、もらってください!この傘……」 「へっ?」  彼女の方を見ると、どこを見ているのか、暗い雨の降る静かな先の先の空間を、顔をこわばらせて見つめていた。 「……」 「でもっ、流石にそんな訳には……」 「……」 「あっ、もうほんとそこなんで、家」 「……し」 「えっ?ん?」 「……わたし、大丈夫ですから!」  そして突然、彼女は駆けた。  傘に守られた領域をいとも容易く打ち破り、少しの水滴を巻き上げながら真っ暗な雨の中へと彼女は飛び込んだ。「えっちょっと!」私の反射的な声は幾重もの雨のベールに吸い込まれて消えた。彼女があまりに不可解で、私は動けずにいた。だけど、すぐ七、八メートル先で彼女はよろめいた。こけながら冷たいアスファルトに手を着く。そのことで気力さえ抜け落ちたのか、彼女はゆっくりと雨に従って座り込んだ。  広がった薄ピンクのシフォンスカートは雫に濡れ、街灯のスポットライトが彼女の表情の一部を斜めにあぶり出すと、それは、目が覚めるほど幻想的であったーー  大粒の水滴が彼女の頬の柔らかな曲線に沿って流れ落ちる。  そんな危なっかしい彼女を、私は自室へと連れて帰ることにした。
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