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太陽の光は、昨日までの全てを無かったことにして溢れんばかりに輝き、能天気だ。遮光カーテンは十分な効力を発揮しているが、その隙間からわずかな日差しが差し込む。ふわりとした春の暖かさだ。朝は穏やかだった。
まるで、これからの二人を幸せで包み込むかのように。
目が覚めると、大きな瞳があった。くりっと見開かれたその白目に、部屋の隙間から入り込んだ太陽光が輝いていた。
「んん……ん!?えっ!?あ、あぁ……そっか……」
「ふふ、おはようございます」
ベッドで二人、横になって顔を見合わせる。
彼女は微笑んでいた。光を蓄えた頬は柔らかく膨らみ、なめらかそうに見えた。起き抜けのぼんやりとした意識の中で見た彼女は、愛らしさの塊のような女性で、胸のとろける感覚をほんの短い間、私に与えた。
一瞬驚いたものの、すぐに昨日の出来事を思い出し冷静になった。
雨に濡れた彼女の肩を抱いて立ち上がり、風邪をひくからと言って手を引いて自宅へと帰った。もうだめだというような表情で立ち尽くす彼女は、本当にいたたまれなかったのだ。彼女にシャワーを貸している間、自分は一体何をしているんだろうという思いに苛まれた。だが、幾分すっきりとした顔で貸した部屋着を纏い、申し訳なさそうに眉を下げる姿を見ると、今度は最大級の優しさをかけたい気持ちにもなった。お世辞にも広いと言えない部屋に二人分の寝床を用意するのは難しく、しかし彼女は文句も言わず、私とともにベッドへ潜り込み、疲労した私たちはすぐに眠ったのだった。
私が体を起こすと、彼女も同じようにした。
「あの……本当にごめんなさい」
彼女が頭を下げると、サラサラとした髪の毛から私と同じシャンプーの香りがした。
「ううん、こっちこそ。急に連れてきちゃって」
「いえ、本当に……なんとお詫びをすればいいのか……あんなところをお見せして……」
そう言って言葉を詰まらせた彼女は、私から目を離して自身の唇にそっと手を寄せた。それは無意識であるように見えたが、彼女の体温を感じられるような距離感での艶やかなその仕草を受けて、急に彼女と同じベッドに居ることが気恥ずかしく感じられた。私はベッドから出て、ベージュのカーペットに足を置く。彼女は女らしさを隠す気はまるでないらしく、少しだけ不安そうに見上げて私の様子を窺っていた。私は慌てて言葉を探した。
「もういいよ。それよりなんか飲む?コーヒーで、いい?」
生身の自分が晒されていくような、そんな感覚がよぎった。
コーヒー粉を大雑把に二杯分入れ、コーヒーメーカーのスイッチを手早く押し、乾かしておいた彼女の服をハンガーから取り外しながら、手持ち無沙汰ですまなそうな顔をしている彼女へ「大丈夫だから、ゆっくりしてて」なんて無神経な言葉を掛け、部屋の片隅に立てかけてある七十センチ程のアイロン台を片足だけ立体にさせたところで、スマートフォンが鳴った。
中藤和馬
恋人の名前だ。
途端に現実がすべて、面倒くさくなってしまった気持ちがした。
「ちょっと」と、誰に言うでもない言葉を吐き捨てながら、四角いスマートフォンの画面をスワイプした。
「もしもし」
「優衣、もう起きてる?」
「起きてるよ、何?」
彼女から少しでも遠くへと、玄関へ向かって歩きながら答えた。
「ん、今週どーすっかなって話」
「うん」
何度も飽きるほど繰り返された、デートの計画だ。
「今日空いてる?」
「……うん」
「どっか行きたいとことかねぇの?」
「うーん…………映画?」
「じゃぁそれで」
「……ねぇ和馬」
部屋の変化に気付いて振り返ると、カーテンから外を覗く彼女の姿が、太陽の光に愛されていた。
……早く会いたい……。そう、電話口にささやくしかなかった。
そして彼女は、自分の服を元通り着て、帰っていった。玄関先で彼女はまた深くお辞儀をした。晴れた陽気にその素顔が似合っていた。ピュアなのにどこか素朴になりきらない、不思議な魅力だった。ゆっくりと扉は閉じ、彼女の姿は消えた。
途端にこの六畳一間が空っぽになってしまった。裸足に触れた床が冷たい。しんと辺りは静まり返っていた。
……後ろ髪を引かれる思いもしながら、重たい扉を見つめるのはやめた。和馬との約束がある、そう思って振り返った瞬間、簡素な傘立てにあるスラリと伸びた傘がよぎった。えっ!と見返しても、やはりそこにあった。彼女の傘だ。
慌てて開け放ったドアの隙間から新緑の空気がくるりと舞い、押し寄せた。春の日差しは輝いていたのに、名前も知らないその彼女はもう、いなかった。
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