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あれから一週間ばかりが経った。月曜日。その日の朝は晴天だった。
昨晩降った雨が空気中の塵をすべて水に流し、澄み渡る青はどこまでも大きく、温かな自然光が降り注いでいた。わずかに残る朝露のしずくが、緑の草木の上で輝き、滴り落ちる様が麗しかった。いつもより体も頭も動いた。目も口も繊細であるように感じられた。いつものように出社したオフィスの中は、すがすがしい空気で満ちていた。エレベーターホールで出くわした先輩社員の両耳で揺れるイヤリングが妙に特別に思われ、「それ素敵ですね」なんて今までだったら見ていないふりをしていたはずの言葉をかけたりもした。
「あーみんなちょっといいかな」
部長の声がフロアの半分ほどに響いた。恰幅の良い部長の隣に一人の女性はすらりと立っていた。ふわりとしたベージュ色のスカートに、黒に近いネイビーのニットが細身の体を引き立てる。肩より少し伸びた軽やかなブラウンの柔らかい髪の毛が丁寧なアレンジで結われていた。
「あっ」
思わず息をのんだ。目を見開いているのが自分でもわかった。
愛らしく晴れやかな姿。
間違いない、彼女だ。
「ーー今日から契約社員として来てもらうことになった。上乃未希(うえのみき)さん」
「上乃と申します。早く、みなさんに追いついて、戦力になれるよう頑張りますので、よろしくお願いいたします」
彼女の声は、あの時よりもさらに完璧に思われた。朗らかで上品な明るさに満ちている。朝の爽やかな太陽光が、彼女の肩ごしの窓の外で世界に降り注いでいた。同僚たちも微笑んでいるのが感じられた。彼女の愛らしい雰囲気はすぐに受け入れられたようだった。部長は私の名前を呼び、しばらくは私とともに動くよう指示した。部長から、「高田は何でも知ってるから教えてもらえ」などと仕事ぶりを認められたことより、空席だった隣のデスクに彼女がいる、そのことに気も漫ろだった。何から話せばよいのか、散らかった頭の中を饒舌さでカバーし、努めて冷静を装ったつもりだ。ふと、彼女が私を覚えているのか、一人で思い上がっているだけではないのか、そんな不安が胸の中をよぎった。顔を上げ彼女を見遣ると、二回瞬きをして、大きな瞳を少しだけ三日月にさせて柔らかく笑った。自惚れてしまいそうだった。
業務説明を終えたところで、彼女を気遣うと、思いがけない言葉をかけられた。
「高田さんって、面白い方ですね」
「えっ!?」
「あっ、ごめんなさい、そういう事じゃなくて……初めてお会いした時、もっとクールな方かと思い込んでいたので……」
「そう?あっ、ショートカットだから?」
「あはは、そういうわけじゃないですが、何と言いますか……。でも、もう一度会えてよかったです」
「わたしも、よかった」
彼女が私を覚えていたことを知って、心が躍るようだった。
「ふふふ、いろいろ教えてくださいね。仕事のことも、あっ、おいしいお店とか!わたし越してきたばかりなので、開拓したいなーって!あっそれより、仕事ですよね。わたし、頑張ります」
「そう、ははは!じゃぁ、まずはこのキャンペーン引き継ごうと思うから、このあと取引先との打ち合わせ、入ってもらえる?」
「はい!」
彼女はそう言って朗らかに笑った。
その日の帰り道、空を見上げると、ほとんど満月のように見える大きく神秘的な月が輝いていた。一人の帰り道、足取りの軽さに幸せが宿った。気がつけば彼女のことが思われる。彼女とまた会いたい、すぐにーー一日目の夜にして、未来への幻想が脳みそを占めつくしているようだった。
家に着いてドアを開けると、部屋の中は真っ暗で音も光も見当たらず、のっそりと、どこか不気味な空間が広がっているように感じられた。
玄関の片隅には、彼女の傘が無言で佇んでいた。
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