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「あれ? すごくご無沙汰じゃない」
突然、暮羽の驚いたような声が耳に入ってきた。
「久しぶり。元気だった?」
背後からの男の声に、聞き覚えがあった。思わず振り向く。
「近衛じゃん。めちゃくちゃ偶然。元気だった?」
「……亮?」
近衛に気軽な挨拶をしたのは都築亮という男だった。暮羽の次に付き合った元恋人である。二十四歳のシステムエンジニア。
背はリョウとは比べものにならないくらいコンパクトで、イメージとしてはまるで小動物……。
久しぶりの顔を眺める。
いや、整った可愛い顔立ちをしている男だ。この店でもほどほどにモテていたなと近衛は思う。社会に出てまで数年とは思えないくらい考え方は成熟しているのに、ベッドの中では初々しい。そんなギャップもまたよかった。
男と寝ることに慣れていたリョウとはまた違った魅力があったなと思う。
亮は近衛の隣のスツールに腰掛けた。会社帰りなのだろう、ダークトーンのスーツを少し着崩している。ここもまた珍しいなと思う。
マルボロの赤い箱から煙草を一本取り出して銜えると、肩を少し怒らせてライターで火をつけた。薄暗い店内にぽぅっと明るさが灯る。それが数秒で消えると、今度は赤い小さな灯火が白い煙に曇った。
亮への興味の発端は、単純なもので名前だった。
「向こうにいたときの親友の名前がリョウだった」
……たしか話のきっかけはそんな感じで。店で鉢合わせると一緒に飲むようになり、酔った勢いでベッドになだれ込み、身体をむさぼり合った。
すべて話が整ったのは事が済んでからで、亮から前から気になっていたと告白されたのも、当時付き合っていた暮羽と別れ話をしたのも。流されるがままで、誠意の欠片なんてなかったと思う。
「どうしたの。いつも一人でなんてないのに」
これは亮特有の厭味だ。この店ではわりとよく一人で飲んでいるが、近衛の浮気が原因で三ヶ月で別れた亮からしてみれば、そう言ってやりたいのだろう。
あの頃の自分は仕事以外は投げやりで、自分であって自分でなかったと思うが、彼から見ればあれが「奥田近衛」であったのだから、甘んじて受けるしかなかろう。
亮は生ビールを注文する。そこに暮羽が口を出した。
「亮、ちょっとあんた元恋人なんだから、この酔っぱらいにもう帰るよう言ってよ」
自分だって元恋人に違いないが、暮羽は亮に対してこのように言う。自分を挟んで三角関係かと、近衛は一人で無責任にも楽しくなる。
「え、珍しい。酔ってるの? 仕事、いいわけ?」
暮羽の言葉に、亮は意外そうな表情を浮かべた。
「仕事は問題ない」
「何杯飲んだの?」
「八杯、らしい」
亮は呆れた顔を隠さない。
「いいかげんにしないと急性アルコール中毒起こすよ。もともと飲む方じゃないんだから」
勤務先の救急外来に世話になりたくなければ、このあたりでやめておきなよと、もっともな理屈で窘められた。
酔ってはないが、アルコールをいつも以上には摂取している自覚はある。酒に溺れようにも酔えないことが分かったからよしとするか。
それに、亮が来たことが幸いだ。
「亮」
「……なに?」
隣の席で、生ビールを美味しそうに口を付けた亮が聞き返す。
「今夜、ヒマ?」
今更ながら亮に愛情を感じているわけではない。
ただ、温かい体温を与えてくれて、余計なことを考える間もないくらい身体を疲れさせてくれる相手が居れば、誰でもよかった。
近衛が居を構えるマンションは、暮羽のバーから歩いてわずかのところだ。
かつては合鍵を渡していた相手であるため、亮も近衛の自宅は勝手知ったる場所である。
二人とも無言で部屋に入ると、そのままリビングに入り、明かりを点けずに、近衛は背後から亮の唇を奪った。
「ん……っ」
期待して付いてきたくせに、亮は驚いたような反応を見せる。近衛は亮の両手首を握り、さらにその手を腰に回した。
今はほとんど味わうことがなくなった、マルボロの香りがする。そう、これは亮の香りだった。
熱い唇を柔らかく噛んで吸う。そしてなぞる。
答えようとする亮の唇の動きも、また一年前と同じで、当時を想起させる。亮の身体をさらに引き寄せようと、腰にある手に力を込めた。亮は近衛を離さまいと、首に腕を回した。
一度、唇を離して、今度は角度を変えて食らい付く。亮の歯列の隙間から舌を忍び込ませた。亮の温かい口腔内で、ちらちらと被る舌を、優しく引き出す。
「ふぅん……」
鼻から抜けるような吐息が聞こえてくる。
ちらりと目を開けると、唇と舌の交歓に夢中になっている亮の表情が見て取れた。
何もかも忘れたい。
早く、夢中になりたい。この身体に。
近衛は落ち着かずにそのまま寝室に移動する。その間、二人でコートや上着を脱がせ合った。
「全然変わってないね、近衛もこの部屋も」
かつては二人でこの部屋で互いを高めあい、むさぼりあった寝室だ。あの頃から何も変えてはいない。亮も変わっていない。
変わったのは互いの気持ちだけだった。
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