(6)離れた手★

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 近衛が、初めてリョウを同僚以上の存在と感じたのは、偶然踏み入れたバーで見た光景がきっかけだった。  その店は、以前から気になっていたものの入ったことはない場所で、その日は仕事が早く片づいたこともあって、軽い気持ちで入ってみたのだ。  そこで展開されていたのは、男同士の痴話喧嘩だった。それが同僚のリョウ・マクスウェルだと分かったときには近衛も驚いた。  その日、リョウは公休と聞いていた。細身のジーンズに黒いシャツ姿。地味な出で立ちだったが、柔らかそうな茶色い髪に榛色の眼、さらには女性看護師や患者が興味の対象としてみるほどの整った顔立ちは、見間違えるはずがなかった。  店内の奥の席で派手に言い争っていた二人だったが、リョウの注意が一瞬、入店してきた近衛に逸れた瞬間、相手の男は逃げ出した。聞くに耐えない暴言を吐き捨てて、近衛の脇をすり抜けていった。    嫌な場面に出くわしたなと正直思った。それでも、目が合ってしまった顔見知りの同僚に声を掛けないわけにはいかず、近衛はリョウに近づく。  彼は、どうすることもできずにうなだれていた。   「あれは、あんたは恋人か」  近衛がそう問いかけると、リョウは自嘲的な笑みを浮かべた。 「つい数分前までは。たった今、振られたばかりだよ」  なるほど、別れ話がもつれた結果の喧嘩だったわけだ。  同性であることは置いておくにしても、言動や容貌……僅かに見た限りでも、目の前の同僚には、もう少し相手を選べと言いたい。 「趣味が悪いな」  近衛の率直な感想に、リョウは苦笑した。 「はっきり言うなよ」 「自覚があるのか」 「それでも、別れたくなかったんだ」  リョウの未練に近衛も頷いた。 「まあ、スペックみて恋愛をするわけじゃないからな」  近衛は問いかけもせずに、そのままリョウの向かいの席に座った。そのままギネスをオーダーする。  リョウは少し驚いたように顔を上げる。  仕事に対しては信頼できる同僚であると知っている。これまでさほどに踏み込む気もなかったくせに、ゲイであると知った途端、プライベートの方に興味が沸いた。 「近衛、あんたはゲイに嫌悪感はないのか」  近衛は少し考える素振りを見せたが、正直にいえばあるはずもなかった。 「……人を好きになることにどんな違いがある?」  リョウは吐息を漏らして小さく微笑んだ。近衛の返答は彼にとって満足なものであったらしい。職場では決して見ることができない、はにかんだような可愛らしい笑みが見られた。  近衛は少し罪悪感を覚えた。  ギネスがサーブされた。  リョウは無言で自分の目の前に置かれたワイングラスを掲げ、近衛もギネスを掲げると乾杯を挨拶を交わしてグラスに口を付けた。  喉の渇きが癒やされると、近衛は改めて自分の言動を振り返る。先程は、狙って言った自覚があった。 「俺は、本当に調子のいいことを言っているなー」  思わず口にしてしまった。それは自分が欲しがっている言葉であると、気がついたからだった。 「どういうこと?」  目の前のリョウは首を傾げた。  近衛はどこまでリョウに打ち明けるかを迷っていた。彼がゲイであるとこちらが握っているのだから、話してしまっても問題はないだろうという意識も働く。  正直、一人で抱えるには少々しんどくなってきているのだ。 「自分に都合がいいことを言ったと後悔しているところ」 「あんたも男が好きなの?」  リョウから、想像以上に率直な問いかけが来た。おかげで少し打ち明けやすくなった。これも彼のコミュニケーション能力なのだろう。 「……そんなところかもしれない」 「かもしれない?」  近衛の曖昧な返事に、リョウは興味を持って応じた。  ことの発端は数ヶ月前に遡る。近衛を悩ませているのは、日本に一時帰国した時に再会した、圭介の存在だった。  彼の鮮烈な走りに目を奪われ、以来圭介のことが気になっていた。  最初のうちは従兄として、医師として、専門家として、あのような場面で仕方なく別れたのだから、彼のその後の容態が気になっているのだろうと思っていた。  休暇が終わり、こちらに戻ってきてから、尋生に連絡を入れると、圭介の容態は回復し普通に生活しているとのことだった。  しかし、近衛の脳裏から圭介のことが消えることはなかった。気になる、という表現が一番近かったかもしれない。近衛の脳裏の、感情を揺さぶられるような、冷静に考えられないところに、いつも圭介の姿があった。  相手が女性であれば、完全に恋に落ちたと認めることができた。しかし、圭介は男だ。  この気持ちをなんと呼ぶのか、近衛には判断がつかなかった。  こちらに戻ってきて数週間はそんなことでモヤモヤとしていた。いっそのこともう一度帰国して圭介と再会すれば、この気持ちが何なのか判明するのかもしれない、そんな強引な方法で結論をつけたいとさえ思い詰めていた。  しかし、それを行動に移すほどの時間もなく、衝動を抑えながら日々をすごしていた。  もしかして。これも、恋心と呼ぶのか。  薄々気がつきながらも、目を逸らしていた現実を、最近になってようやく受け止められるようになってきた。  過去女性と付き合った経験はある。結婚を意識したことはなかったが、困らない程度には経験は積んでいるつもりだった。  しかし、同性のしかも子供をこれほどに愛おしいと思う気持ちは初めてで、戸惑いしかなかった。  世の中には特殊な性癖をもつ人間はいる。同業者にも多いと聞く。それをこれまでは他人事として聞いていた。自分は違うと思っていたし、まさかこのようなことで悩むとは思ってもみなかった。 「俺は、自分がバイセクシャルかもしれないという事実に戸惑っているんだ」  近衛は正直にリョウに告白した。  自分は同性もいけるバイセクシャルだったのかと気づいたショックは相当なものだった。同性と異性、分け隔てなく愛情を注げる……いや、率直に言えば欲情できる自分の気持ちの節操のなさに正直戸惑っていた。  リョウはそんな近衛の戸惑いを、まっすぐと見据えてきて一言で吹き飛ばした。 「何言ってるんだ。君が欲しがっている言葉を、今度は僕が言ってやる。  性別で人を見ないっていうのは、とても素敵なことだと思うぞ」  自分はそのように許してくれる言葉を求めていたのかと、近衛はリョウの一言でようやく気がついた。  それで十分だった。  この一言で近衛は、新たな自分を受け入れることができたのだ。  だから、一緒に歩むパートナーはリョウがいいと思った。    傷心のリョウと結ばれたのは、それから間もなくのことだった。  近衛にとって、初めての同性の恋人だった。
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