(1)他愛もないきっかけだった

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「奥田先生?」  横から呼び止められて、医師の奥田近衛は我に返った。 「大丈夫ですか? 挙動が止まってましたよ」  ベテランのナースにそう指摘されて、自分がスタッフステーションの共有PCを開いたまま呆けていたことに気がつく。夜勤明けの午前。そろそろ上がりたいが、カルテ入力だけは終わらせたくて、ここで粘っていた。 「ああ。大丈夫。ちょっとぼうっとしていたみたいで」  ぼうっとしていたところではなく、半分意識が飛んでいた。  そのナースは全てを悟ったように苦笑する。 「昨日からずっとバタバタでしたから、さすがに疲れも出ますよね。まだ上がれないんですか?」 「いや、そろそろ燃料切れるから上がるよ」  仕方ない。諦めよう。明日以降の自分の頑張りに期待して、システムからログアウトした。  本棟三階の心臓外科の病棟から医局がある別棟に向かうには、外来患者でごったがえす一階の中央ロビーを通る必要がある。  昨夜いっぱいまで降り続いた雨は、いつのまにか上がり、天井まで続く大きなガラス窓から太陽光が降り注ぐ。ロビーから見える中庭の木々についた水滴は、太陽の光を受けて、きらきらと輝いている。  ただ、ぶっ続け二十八時間労働の後には、そんな爽やかな光も単なる凶器でしかない。近衛は目を細めた。  すでに時刻は昼近く、ロビーの人口密度としては一日の中でピークに近い。  疲労で重い身体と反応が鈍くなった頭をどうにか喝を入れ、別棟の医局に向かう。自宅のベッドが恋しい……。  そんな、何の変哲もない、いつもの夜勤明けの朝だった。 「ピンポーン、番号札三十六番の方、五番窓口にどうぞ」    アナウンスに呼ばれて動く人影にふと目に留まる。  後ろ姿は、男子高校生のようだ。茶色いブレザーにチャコールチェックのパンツ。市内の公立高校の制服だ。  その正体を認めて、近衛は自分の身体からすっと疲れが抜けていくのを自覚した。人の波を器用にかわし、その背後に近づく。 「圭介」  近衛は、制服姿の少年が会計を終わらせるのを見計らい、背後から声を掛けた。  圭介、と呼ばれた少年も声だけで相手が分かったらしく、しぶしぶといった本音を隠さずに振り返る。案の定、近衛を認めて僅かに表情を歪めた。 「あ……近衛さん。こんにちは」  それでもきちんと挨拶する。育った環境と性格だろう。  茶色いブレザー姿の少年、奥田圭介は従兄にあたる近衛のことを、この上なく苦手としている様子だった。  それが表情にあからさまに出てしまうのだが、近衛はあまり気にしてない。無視をされるよりマシ、いやその反応さえ可愛いと思えてしまっているから始末が悪い。自分よりも半分くらいしか生きていない少年に、こういう素直な反応をされると、ついつい構いたくなってしまう。   「もう今日は終わり?」  近衛が問いかける。  圭介は心臓に疾患を抱えており、この病院に二週間に一度の頻度で通院している。それでも今日のように、来院してきた圭介と夜勤明けのタイミングで会えることなどめったにない。  そう、これはチャンスなのだ。  圭介は素直に頷いた。 「はい。会計もすんで、薬も貰ったんで」  圭介は肩にかけたディバッグを見やる。当院は今時珍しく院内処方なので、会計時には処方箋ではなく処方された薬剤が渡される。 「そっか。じゃあ、送っていこう。どうせバスで駅まで出るんだろう? 俺も夜勤明けで、これから帰るんだ」  近衛の申し出に、圭介がとっさに身を引く。 「え。それは……大丈夫です。バス待つし……」  バスに乗るより車の方が早いに決まっている。圭介の防御反応だった。  しかし、近衛は先程ロビーの大きな窓の向こう側で、停車した路線バスに乗客が乗り込んでいったのを、視界の端で認めていた。 「さっきバスは行ったみたいだぞ。次は四十分後くらいじゃないか」 「う……」  思わず詰まる圭介に、近衛が苦笑する。 「そんな遠慮しなくていいから。ちょっとロビーで待っててくれ。帰る支度をしてくる」  返事を待たずに白衣を翻した。チャンスは確実にものにしたい、今日はついている、と気分は上々だ。現金なもので、二十八時間労働の疲れはきれいに吹き飛んでいた。    近衛がこのY市の高台にある市立病院に、心臓外科医として勤務し始めたのは一年ほど前のこと。それ以前は約五年間、アメリカのロサンゼルスにある大学病院に勤務していたが、帰国早々、大学時代の恩師にこの病院を紹介された。  この市立Y病院は、循環器疾患に強みを持った拠点病院として、数年前に「心臓・血管センター」という専門施設を設置した。そのスタッフ増強の一員として、近衛に白羽の矢が立ったのだ。  施設と医療者の充実とレベルアップに伴い、年々遠方からも患者も増えて、取り扱い手術件数も増加している。そのため年間の手術数と成功率は関東圏でも群を抜いており、それがまた医療者の技術を磨く結果になっているのだ。  それは日々膨大な数のオペをこなすアメリカの大学病院から移ってきた近衛にとっても、またとない環境ではあった。  仕事は充実しすぎるほどに充実している。いや、どこの医療機関でもそうなのだが、人手が足らずかなり過酷だ。  その殺伐とした環境下で近衛の癒やしとなっているのが、十七歳年下の従弟、圭介の存在だった。反応の一つ一つが新鮮で可愛いと、十七歳の年齢差をものともせずに近衛がひたすら構っている。そこには大人特有の狙いや本音もあるのだが、幼い従弟を怖がらせたくなくて、適度な距離感を保って、極力構うだけにしている。    近衛は急いで医局に戻り、着替えを済ませる。圭介に帰られてしまっていたら、今日は精神的に立ち直れない。  同僚に手早く挨拶をして、部屋を出る。腕時計はすでに十一時半に近い時間をさしている。焦り気味にロビーに戻ると、彼はエントランスで電話をしていた。 「……うん。大丈夫。何もないから。薬も前と同じだし、ちゃんともらったよ。これから学校にいくから」  内容で相手を察することができる。圭介の兄で、近衛の親友の奥田尋生だろう。両親はすでに亡く、彼らは兄弟二人暮らしだ。当然尋生は圭介をかなり気に掛けている。 「……あーー。オレはいいよ。二人でゆっくり行ってきたら? ……え、本当に大丈夫だから。適当に留守番してるし」  尋生と何度かやりとりをして、圭介がスマホの通話を終了させた。大きなため息を吐く。  それが、彼らしくない重たげなもので、近衛は少し気にかかった。 「お待たせ。待っててくれて安心した」  何事もないように近衛が声を掛けると、圭介が視線を上げた。向けてくる目はいつものもので。 「職員駐車場から車を回してくるから、ちょっと待ってて」  近衛が圭介の肩に手を置くと、圭介は小さく頷いた。  近衛が愛車のランドローバーをエントランスまで回してくると、圭介が助手席に乗り込んできた。 「お願いします」  どんなときにもきちんと挨拶できるところも、近衛は好感を抱いている。  近衛はランドローバーをゆっくりと発車させた。  この病院から、最寄り駅まではスムーズにいけば五分程度。 「最近、調子はどう?」  さりげなく近衛が問う。  助手席の圭介は、近衛に視線を投げることなく前を見つめて、応じる。 「特に」  内心苦笑する。とりつく島もない。 「変わりがないならいいけど。定期的に検査はしてるんだろ?」 「今度ね」 「主治医の日向先生は?」 「落ちついてるって」 「薬は?」 「変わらないよ。ここ数ヶ月は同じやつ」  近衛が投げかける問いかけに対する答えに不審なところはなく、しかもそつがなくて突っ込みどころもない。近衛に対する圭介の対応はいつも隙がなくてこのようなものだが、ここしばらく圭介を構い過ぎていたためか、警戒されているようだ。  さて、どうしようか。  この限られた時間のなかでどうやって圭介との距離を詰めるかと考えながら、ラジオを付ける。すると、ちょうど午前十一時半を報せるアナウンスが入った。 「そんな時間か。圭介、昼飯付き合わないか?」  帰宅してそのまま寝るつもりだった。しかし、圭介と会ったことで脳が活発に動き始めたためか空腹だった。 「近衛さん。オレ、学校だから」  圭介の反応はにべもない。やっぱりなと近衛は思う。実はそのように断られたことは何度かある。やはり自分は警戒すべき大人に分類されているらしい。  それでも、こうやって素直に車に乗って送られてくれるのだから、まだましだ。一時はあまりに険悪で、姿を見つけただけで逃げられていたこともあった。距離を詰めるどころの話ではない。   「そっか」  残念だ、とそれは本音。今回は諦めよう。  そうこうしているうちに、車は急な坂道を下りきり、駅前に到着した。ロータリーを周回し、改札前で車を停める。  もう、終わってしまう。どうにかしてこの再会のチャンスに爪痕を残したい。  圭介が助手席のドアを開けようとしたところで、とっさに自動ロックを掛ける。 「近衛さん?」  圭介は、怪訝な様子を隠さずに近衛を見た。 「じゃあ、今晩は一緒に飯に行こう」  唐突な提案に圭介が、はあ? と目を剥く。 「何言ってるの? 夜勤明けでしょ」 「寝てくるから大丈夫。夕方お前の家に迎えに行く」  有無を言わさぬ展開に圭介が戸惑う。 「なんで」 「え、兄貴の許可、必要?」  もちろん尋生には言っておくつもりだが。しかし圭介は眉間にしわを寄せた。子供扱いされたのが不満なのだろうか。 「そんなの要らない」  無意識だろうか、圭介が口を尖らせた。ほう、こんな表情を見せてくれるとはと近衛はしみじみ思う。 「まあ、高校生だしな。心配するだろうし、俺からあとで尋生に話しておく」  兄貴の説得は任せておけと近衛は請け負う。 「じゃあ、夕方六時半な」 「もう意味が分からない」  投げやりな圭介の反応を、近衛がたしなめる。 「意味なんてないよ。夕飯に付き合って欲しいってだけだから」  旨い店予約しておくし、素直におごられてくれ、と近衛はロックを解除した。  圭介がドアを開く。 「それじゃあ夕方な」    近衛が笑顔で手を振ると、圭介が盛大に嫌な顔を浮かべた。 「ありがとうございました!」  ランドローバーを降り、そう言ってバタンとランドローバーのドアを閉めたのだった。
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