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「ねえ、もういい加減止めなさいよ。酒は水じゃないってわかってんの」
空になったウィスキーグラスをカウンターの向こうのバーテンに差し出した。もう何杯目かも判らない。ただ酔いたかった。
しかし、差し出されたグラスに注がれていたのは、琥珀色の液体ではなく透明な水。
近衛はあからさまに不満な声を上げた。
「なにこれ。俺が欲しいのはおかわりなんだけど」
「何言ってんの。もう八杯目よ。いつもの倍じゃない。そんな酔っぱらいに飲ませる酒はないのよ」
客に対して暴言にも等しい言葉を吐くのは暮羽だ。カウンター越しに美女が仁王立ちをしている。
きちんと相手を暮羽と認識し、会話を交わしているのだから酔ってはいないと近衛は判断する。
「俺、酔ってないよ」
暮羽は珍しいくらい怪訝な表情を浮かべ、どうしたのよ、と問いかける。
「……あんたわかってる? だから危ないのよ」
酔えない、というのが正確なところだった。いつもの倍の酒量でも酔えないくらい神経が研ぎ澄まされている。酔って意識を失いたいのに、酒に逃げることさえ拒否されている。
今朝の電話で、疲れと眠気は一気に吹っ飛んでしまった。一日中、リョウのことを考えていた。己の浅はかさを呪うしかできない自分にうんざりした。
酒に逃げるというのは、安易で情けない行動であり、こんなことをしても何の解決にもならないと分かってはいるが、酒に頼ってでも落ち着きたかった。
なぜ、気づけなかったのだろう。
今思えば、別れる直前の彼の様子は変だった。いや、変、なんてものではなかったのだ。病気による免疫力の低下から感染症にかかりやすくなっていたに違いない。体調も悪そうだったし、顔色も良くなかった。
近衛も心配になって何度か受診を勧めた。付き添うことはできないが、診察は受けて来い、と。
多忙な彼が、そのアドバイスに従ったのかは分からないが、医師である彼にそれ以上を言うのは野暮だと思ったので、放置していたというのが本当のところだ。
なぜ、あの時、一緒に付いていってやらなかったのか。
その頃から、二人の距離は急激に離れていった。リョウはセックスにも応じなくなっていた。
毎日キスを求めれば拒むことはなかったし、スキンシップも欠かさなかったが、その先は駄目だった。
不満がないわけではなかったが、「仕事で疲れている」と言われれば飲むしかなった。近衛は近衛で、彼の愛情が薄れていることを自覚したくなくて、その言葉を信じようとしていた。そのため、深く追求することをしなかった。
彼は身体が辛かったのだ。
あのとき、そんなつまらない感情を捨てて、彼の身体を考えていたらと思う。
いや、と近衛は首を横に振る。
自分があの時病院に連れて行ったとしても、病状はかなり進行していたはずだ。自覚症状がすでに出ていたのならば、相当に辛く、病状は一刻を争う事態だったに違いない。
いや。違う。
それでも彼の病気を知っていたら、あんな別れ方はしなかったはずだ。
いや、寄り添ってやれたはずだ。
近衛はそこまで考えて、眉間を寄せる。深く考える。あの時の自分の本音に問う。
リョウに別れを告げられた時は、終わった、捨てられたというショックと共に、正直なところわずかにほっとしていた部分もあった。
日本を離れて五年という一区切りが来ていて、帰国か残留かを迷っていた時期だった。もちろん父から釘を刺された自分の責務を忘れたわけではなかったが、迷いが生じていた。
こちらでリョウとすごしながら研鑽を積み、彼とともにいられる方法を探るか。
それとも、すべてを終わらせて日本に戻るか。
彼と付き合い始めた頃は、一緒にいるためならばなんでもすると、残留する方向に強い気持ちがあった。しかし、残留か帰国かとそこに迷いが生じてきたのは、多少なりとも頭が冷えて現実が見えてきたためだろう。
冷静に考えれば、自分が奥田家の本家長男の責務から逃れられるわけがないのだ。
それでも、リョウと別れることは考えたくなかった。
残るは、日米で遠距離恋愛を展開するという選択肢と、リョウを説得して彼と共に帰国するという選択肢もあったが、それらは現実的とは思えなかった。
時間稼ぎに過ぎないが、帰国を遅らせる方法しか考えつかなかった。
二人で一緒にいるためには、当然だと思っていたことを捨てる覚悟が必要で、改めてその覚悟が本当に自分の中にあるのか、追い詰められるようにずっと考えていた。
そのタイミングでリョウから別れ話を切り出された。
ショックだった。もう僕たちは終わりだ。君がここを出て行かなければ僕が出て行く、とまで言われ、それが帰国を選択する後押しになった。
最後の一ヶ月は、会話がなく、関係は冷えていた。どうしてそうなってしまったのか近衛にも分からなかった。はっきりとした別離の言葉は、そんな毎日の終わりを意味し、少しだけほっとした。
そして、追い詰められるように悩んでいた近衛個人の迷いに対しても、きっちりとした決定が突きつけられた。選びきれなかった近衛に対して、失恋のショックの一方で、どこか安堵感がもたらされたのが本音だった。
リョウの愛を失ったショックはおそらく時間が癒やしてくれる。物理的に離れて、日本に戻ればじきに忘れられると思っていた。
実際にその通りで、いくつかの恋愛を繰り返し、尋生や圭介と交流しているうちに、徐々に思い出すことも少なくなっていった。
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