(6)離れた手★

8/10
前へ
/121ページ
次へ
「奥田先生、大丈夫ですか」  内科と外科の合同で行われたミーティングの後に、声をかけてきたのは日向だった。  近衛はディスカッションに使われたデータに視線を落として、ぼんやりと眺めていた。気づけばメンバーは全員が引き上げ後で、残るのは日向だけだった。 「……え、いや。あ、なにか……」  話しかけられて、近衛は改めて我に返る。  うっかりしていた。少し気を抜いていたか。  とっさに反応してから、我ながら曖昧な反応をしてしまったと後悔する。資料を手早くまとめて、立ち上がった。  日向といえば、その反応自体がもういつもの奥田先生らしくないですね、などと鋭い突っ込みを入れてくる。  あの夜から五日が経っていた。  軽率だったと今更ながらに一人で猛省している。  どんなにしんどくても、あの部屋であのような行動を取るべきではなかった。ならば、外でならばよかったのかという突っ込みもあるが、亮に対しても誠意を欠いた行動であったと思っている。  圭介に激しく拒絶され、介抱することも叶わずに自宅に戻ったことだけを見届けた。そして、自室に戻ると亮はいなくなっていた。  連絡しようも着信拒否されているらしい。  リョウの死去、圭介への軽率な行動、亮への誠意の欠片もない行為。こうやっていろいろな人を傷つける自分に、呆れ果て、うんざりしていた。  目に見える形で誰かが詰ってくれたり、殴ってくれれば自分の浅はかさを実感できるが、いい大人である自分にはそれさえ叶わない。  自分を責めるのは簡単で、誰かに許されるまで、いつまでも責め続けてもよかったが、一方で考えすぎると、仕事に支障も出てきそうだった。  そんなことをしたらいよいよ人として終わる気がする。ならばと、考える間も、休む間もないくらい仕事で酷使することにした。  手っ取り早く仕事に逃げたのだ。  その五日目。わずかな仮眠で働き続けるにも疲労が溜まってきていた。 「最近、休まれてないんじゃないですか」  さすがに目に見えるほどの疲労感ではないと思っていたが、日向はよく見ている。さっきの議論はいつもの先生の切れが感じられませんでしたし、休まれた方がいいです、と助言された。 「少し仕事を詰めすぎたみたいです」  そう弁解する。 「先生が倒れたら困る患者さんも多いんですから」  正論すぎて何もいえない。近衛は曖昧な笑みを浮かべた。  そこで、日向が何か思い出したように空を見た。 「そういえば、一昨日に診察に来た圭介くんも疲れた顔をしていましたよ。前の日に試験勉強を頑張りすぎてしまったそうですが、よくよく聞いてみるとあまり眠れないらしくて」  圭介の名前が出て近衛はドキリとする。  日向は、眠れない圭介のために軽い睡眠導入剤を処方したと話した。こんなことは初めてだという。  圭介の体調悪化の原因は分かりきっていた。 「一昨日はちょっと酷かったですね。ちょうど昨日から期末試験だと言っていたので、大事をとって学校に行くことは止めさせましたけど。  最近は寒いですから、無理をさせると……」  近衛は何も言えなかった。  再び自分を責める言葉が沸いてくる。  圭介に部屋の鍵を渡したのは自分だ。あの場に鉢合わせる可能性があると、予想できたはずではないか。すっかり失念していたのは酒に酔っていたから。酔っていないと思っていたのに、判断力が鈍るほどに飲んでいた。それは自分の未熟さだ。逃げていただけだ。  何をそんなに乱れることがあったのだと、今ならば思う。圭介より大事な人はいないのに。  たしかにリョウの死はショックだった。今の自分であるために大切な人だった。  しかし、それはもう終わった話で、圭介のことを第一に考えるべきだったのに。  圭介に無理をさせているのは間違いなく自分が考えなくとった行動だと思うと、ひたすら情けない。己の浅はかな行動で圭介が負った衝撃はどのようなものだったのか。いま、彼が受けている傷の深さそのものが、そのまま自分への想いの深さだったのに。  なのに、ここまで来てなお、圭介に完全に拒絶されることを恐れているのだ。  最悪のことを考えたくなくて、考える暇がないほどに身体を追い込み、そして圭介も追い込んでいる。  思っていたより自分は弱かったと思う。  あのときこうしていれば、わずかな配慮があれば、今の自分にとって何が大事なのか、信じるものはあったはずなのに。  近衛の脳裏にあの時の圭介の眼が思い浮かぶ。  すべてを拒否されたのがわかった。だから身体が動かなかった。  いくつもの後悔は、近衛の心に黒い染みを作る。いろいろなことが後悔として沸き上がってきて、しまいには心がどす黒く染まってしまいそうだった。 『先生、お客様が三階のスタッフステーションにいらっしゃってますが……』  医局で調べものをしながら、うっかり居眠りをしていたようで、呼び出し音で目が覚めた。腕時計を見ると午後七時を指している。アポイントがない客なんて珍しい。 「誰?」 「女性の方で『斉藤様』と仰るそうです。どうしますか」  斉藤という名前に心当たりはないが、同じ音で西藤はあった。  朋美だ。  その場で待ってもらうよう伝言を伝えると、白衣を羽織って医局を後にする。  客はやっぱり朋美だった。  圭介の兄である尋生の婚約者。スタッフステーションのカウンターの前で待つ彼女を見て、よくぴんときたなと自分に驚く。「さいとう」と名乗られても、いつもであれば思い当たらなかったかも知れない。圭介のことをずっと考えていたためだろう。 「おう、突然どうした?」  近衛が気軽に挨拶をしたが、本来であれば朋美と直接的な関係は持っていない。彼女が直接職場に訪ねてくるような用件はないはずだった。これまですべて尋生を介してのコミュニケーションで済んでいたのだ。彼女との距離はそれが自然だった。 「尋生は?」  近衛が当然のようにそう訪ねると、朋美は少し肩を竦める。 「……今日はわたしだけ。珍しいでしょ。ちょっと話があるの」  尋生には聞かれたくない話らしいと察した。  近衛は軽く頷く。 「そう。じゃ、院内のカフェでも行く?」  朋美は頷いた。
/121ページ

最初のコメントを投稿しよう!

3557人が本棚に入れています
本棚に追加