(7)優しい体温★

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(7)優しい体温★

 広々としたホテルのロビーに飾られたクリスマスツリーは、中二階を越え、天井に手が届きそうな、見上げるほどの高さだった。  青青としたモミの木に、赤や黄色のボールと一緒に電飾が下っている。柔らかい暖色の照明の中、所狭しと飾った電飾の光がボールに反射してキラキラ輝く。  このツリー目当ての客もいるのだろう。  数人の若い女性がスマホをかざして巨大なツリーの前でじゃれあっている脇を近衛は通り過ぎた。  そういえば、クリスマスシーズンか、と今更ながらの季節感に気づく。  最近は職場にほぼこもりきりだったため、季節感などすっかり忘れていた。季節は確実に移ろっているが、それを感じるほどの余裕はなかった。よくよく思い出してみれば、スタッフステーションのカウンターや待合ロビーにもクリスマスツリーが飾られてあったように思う。  近衛が、東京の官公庁街に近いシティホテルに姿を現したのは、クリスマスの足音が聞こえる十二月半ばの土曜日のことだった。  約束は午後三時にこのホテルのロビーにあるラウンジ。土曜日の昼だけあって、ほどほどに席が埋まっている。ピアノ演奏のクリスマスソングが耳障りにならない程度の音量で流れている。  近衛が東京のホテルまで出てきたのには理由があった。ここから徒歩五分ほどの場所にある大規模なイベント会場で、この週末に医学系学会が開催されている。  近衛は専門分野が異なるため参加する予定はなかったのだが、ここに、先日リョウの訃報を知らせてきたロイが参加するらしく、時間を作るから、ゆっくり話さないかと誘われたのだ。  圭介に向き合い、彼に気持ちを伝えるためには、リョウに対する気持ちの整理を避けて通るわけにはいかない。しかし、近衛はリョウの最期について全く知らない。国際電話で可能な話題だろうかと疑問に思いつつも連絡を取ってみたところ、直接会える機会に恵まれたのだ。  もちろん話は楽しい昔話でも思い出話でもない。単純な話ではないぶん直接話したほうがいいだろう。  恋人の異変に気づかず捨てられたと思い、のこのこ帰ってきた自分が、自分の代わりに彼を看取った男と何を話すのか……。近衛の胸の内に、自虐的な気分がないわけではなかったが、結局のところ、そのような己の愚かさを実感し、向き合わねば、気持ちの整理に繋がらないのだろうと思う。  この一年で自分は変わった。リョウに対する愛情は過去のものだ。  自分の中途半端で誠意のない行為で傷つけてしまった圭介に許しを請い、もう一度気持ちを伝えるために、決着をつけなければならない。  ロイと会うにあたっての唯一の懸念が仕事だった。指定された日時は土曜日ではあるが、どこも常にギリギリでシフトを回している。  すると、先日夜勤を交代した同僚が変わってくれると申し出てくれた。週明けには大きなオペの予定が入っている。しっかり休めと釘を刺された。  待ち合わせ場所のラウンジを見渡すが、ロイはまだ来ていない様子だった。壁際の席に案内され腰を落ち着けると、コーヒーを注文する。  暖色系の明かりのなかで、ざわつきながらも談笑する人の群。近衛は店内を俯瞰した。  青いストラップを首から提げた外国人も多い。きっとロイも参加している学会の参加証だろう。国内外で研究が活発な分野だ、多くの参加者が集まり活発な意見が交わされているのだろうと思う。   ロイは約束の時間ぴったりに姿を現した。やはりそのストラップを提げている。近衛は立ち上がって彼を迎えた。  近衛の前に立ち、ひさしぶり、と一年前と変わらぬ様子で挨拶をした。 「突然で悪かった。仕事、抜けるの大変だったろう?」  一年のブランクなど感じさせないラフな挨拶。近衛は、いいや、と首を横に振りながらソファに腰掛けた。ロイは近くを通りかかったウエイトレスにコーヒーを注文する。 「問題ない。ちょうど休みが取れた」 「それはラッキーだ」  ロイの表情が明るく華やいだ。  同年代の彼をまじまじと見る。一八四センチの近衛の身長より若干低い。薄いベージュのシャツに質のいいダークブラウンのスーツ姿。ノーネクタイでも様になる。栗色の癖毛にフレームなしの眼鏡。何もかもが変わらない。一年前のままだ。  それから少しばかり互いの近況と他愛のない話をした。ロイがその名前を出したのは、出されたコーヒーにミルクを入れ、かき混ぜたスプーンをソーサーに置いたときだった。  リョウのことなんだが……。  本題だ。近衛も襟を正した。  ロイの話はのっけから意外な方に向いていた。 「近衛。この間の電話は悪かった。おれも少しおかしかったんだ。……混乱していた」  近衛は正直、何を謝っているのは判らなかったが、ロイは「君を責めるような口調で追いつめてしまった」と視線を落とした。 「感情が先に立ってたんだ。  正直、当たっていた……」  ロイがあのとき、自分をコントロールできないほどの感情の渦の中にいたということが、近衛には信じがたかった。同僚を看取るという経験は、近衛自身はないが、かなりのストレスに見舞われそうだ。身内や友人というほどに近いわけではないのに、元気な頃から徐々に衰えていくのをつぶさに見ていくのだ。冷静であろうとすればするほど、感情との間に乖離ができて、精神的に追い詰められそうな気がする。  ロイが近衛に連絡してきたのは、リョウが亡くなって半月ほど経ってからだったという。  それまでずっと連絡をするかどうかを悩んでいたとのこと。生前のリョウに止められていたそうだ。  「責めたいわけではないから言うな」と言われていたのにな、とロイは笑った。 「おれが電話したのは、お前を責めるのが目的じゃなかったんだ」  リョウは言い訳をするように、言いにくそうに弁解した。 「でも、話していたらだんだん気持ちが高まってきて……」  そんなことを気にする必要はないのに。たぶん、自分が浮かれていたのだろうと近衛は分析する。考えてみれば、圭介に告白して以降、嬉しいこと続きで浮ついていたたように思うのだ。  国際電話とはいえ、その雰囲気がロイに伝わったのだろうと思う。  元同僚の臨終に立ち会い、身も心の疲弊していたところに、その元恋人が、死も知らずに暢気な雰囲気で電話口に立ったとしたら……。 「いや。話してくれてありがとう」  自然と感謝の気持ちが口をついて出た。もし、リョウの死を知らなかったら、何も知らずに彼の幸せを祈っていたとしたら。真実を知ったときに今以上に自分を許せなくなりそうだ。まだ、事実を知って、悩んで後悔し、己を顧みて反省できる機会があってよかったと思う。 「看取ってくれてありがとう」  ロイが自分の変わりにリョウを看取ってくれたのだ。きっとリョウも寂しくなかっただろうと思う。  近衛にはそうやってロイに感謝し労うくらいしかできないのだが。  しかし、ロイはかぶりをふる。 「近衛。そんなことで礼はいらない。  リョウはおれにとって大切な人だから……」 「え?」  今、大切な人と言ったか  近衛は耳を疑った。
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