3559人が本棚に入れています
本棚に追加
「近衛さんがこんな店を知ってるなんて意外」
ランドローバーから下りた圭介が、意外そうな声を上げた。
その日の夕方。近衛が圭介を連れてきたのは、海沿いの国道に面する小さなイタリア料理店だった。
圭介は魚と肉、どちらが好きかなと悩んだ近衛だったが、あまり塩気のあるものは好まないという尋生の助言を受けて、魚介類を素材のまま美味しく食べさせてくれる店を選んだ。
圭介が意外と驚いたのは、その店の外観だった。黒い柱に白い壁とみごとなコントラストを成す洋館は、おおよそ近衛が好んでいくような店には見えなかったのだろう。
「ここはさ、朋美ちゃんが教えてくれた店なんだよ。何度か、あのふたりとも来た」
朋美ちゃん、とは尋生の婚約者だ。彼女との付き合いも尋生とともに長い。順調にいけば半年後には彼女は圭介にとって義姉になる人だ。
このような気合いを入れたいときに使える洒落た店は、すべて彼女の受け売りだ。
「朋美さん……」
そう呟いて、圭介は店を仰いだ。近衛はさりげなく圭介の背中を押した。
「行こうか」
予約を入れていたため、通されたのは二階の個室だった。広くもなく狭くもない、ほどよい距離感が保てるシンプルな部屋だ。
目の前には一段高いところから見下ろす黒い海。暖かい光が部屋を照らし、絶妙なポジションで間接照明がアクセントを加えている。ベージュ色の壁が妙に心を落ち着かせ、濃い目の木目のテーブルが安心感を誘う。そのテーブルの上には一輪差しの花が活けてあった。
席に着くと、ウエイターからメニューを渡された。
「ここは何でも旨いぞ。とくに魚介類はおすすめだな」
近衛の言葉に、圭介は安堵した表情を浮かべる。
「そうなの? オレ、魚好きなんだ」
「そうか。よかった」
少しだけくだけた反応に、近衛は嬉しくなる。メニューを眺める圭介の表情が少し和らいだ感じがする。いつまでも眺めていられそうだと思っていると、圭介がその視線に気づいて顔を上げる。
「なに?」
「いや。パスタは手打ちで旨いしなー、ピザもなかなかいける。前にこの魚介類のピザを食べたけど、旨かった」
近衛が誤魔化すように言うと、圭介が笑みを浮かべた。笑うとやはり幼くて可愛い。
「じゃあ、それ頼もうよ」
やはり食べ盛りだ。食べ物の話になると表情も明るくなる。近衛と圭介は、前菜の盛り合わせに、サラダ、カルパッチョ、アクアパッツァに魚介類のピザを注文した。
「なんか、兄ちゃんが近衛さんと楽しんでこいって言うんだ」
前菜が運ばれてきて、圭介がチーズやサーモンが乗ったクラッカーを頬張りながら言った。
たしかに、尋生も圭介に楽しんでくるように言っておく、と話していた。その通りにしてくれたのだろう。だから昼間よりも態度が軟化しているのだろう。
「尋生に圭介を今夜連れ出すからって連絡をしたときに、どんな店なら圭介が喜んでくれるかなって尋生にリサーチしたから、気遣ってくれたんだろ」
近衛がそう弁解すると、ふうん、と圭介が頷いた。まさかここで近衛と尋生で話が通じているとは思うまい。
「ねえ、なんで近衛さんはオレを食事に誘ったの?」
今日の圭介は積極的な印象を受ける。
いつもの病院のロビーで会う印象よりも年齢に近いというか、気持ちが開放的になっているのかもしれない。場所の違いが影響しているのだろうが、いずれにしても自分に興味を持ってもらうのは嬉しい。
「圭介にはランチ振られてるからな。夜なら付き合ってもらえるかなって思っただけだよ」
近衛はさりげなさを装う。
「うーん? いつもは晩飯はオレが作ってるから、難しいよ?」
「知ってる。でも、今日は尋生がデートなんだろ?」
「なんで知ってるの?」
「昼休みに本人に聞いた。
尋生は、どうして俺が圭介に振られて、近衛はオッケーなの、って嘆いてた」
近衛が大いに脚色して伝えると、圭介が憮然とした表情を浮かべる。
「邪魔できるはずないじゃんね」
高校生でも、案外大人みたいなことを考えるんだな、と思う。
「でも、あいつらが一緒にって言ってるんだから問題ないだろ? もうすぐ家族になるんだし」
近衛がさりげなさを装ってそう言うと、圭介がわずかに憮然とした表情を浮かべた。
「なんだ、兄貴が自分だけのものじゃなくなるのが嫌なのか?」
近衛がそうからかうと、圭介の表情が変わる。
「そんなんじゃない!」
てっきり図星かと思ったのだが、そんな感じの反応ではない。直感に近いもののような気がしたが、なにか違和感がある。様子がおかしい。
しかし、それにあえて気がつかないふりをして軽く流した。
「尋生は弟離れができてないからな。お前のその全力の否定は悲しむだろ」
圭介は答えなかった。
あの反応は、なんだろう。
近衛は疑問を持ちながら、サーブされたばかりのアクアパッツァを取り分けたのだった。
食事を終えてマンションに戻ってきたら、午後十時を回っていた。
駐車場でエンジンを止めると、助手席の窓に凭れて寝ている圭介の肩を揺らす。
「圭介。着いたぞ」
ぼんやりと目を開ける。
「え」
「うちだ」
近衛を見て目を何度かぱちぱちさせてから、我に返ったように飛び起きた。
「ごめん……。寝ちゃった」
近衛は苦笑した。人間満腹になれば眠くなるし、車に揺られても眠くなるのもわかる。ただ、自分の隣で無防備に眠り込んでしまうというのは、以前よりも警戒心が薄れている証拠のようで、近衛にとってはなにより嬉しい。
実は運転しながら、圭介の寝顔を横目で眺めてはニヤニヤしていた。こんな寝顔を見せてくれるなら、いつでもいくらでも飯なんておごるし。
「いや、少し遅くなったしな。尋生は帰ってきてるのかな」
近衛がそう話を振ると、圭介は分かりやすいほどに顔を強ばらせた。何が圭介にそんな表情をさせるのだろうと思う。
きっと尋生の違和感は正しくて、おそらく圭介は何かしらの兄に言えない気持ちを抱えている。
マンションのエントランスまで戻ってくると、偶然尋生と鉢合わせた。向こうもちょうど帰ってきた様子。
背後から、尋生が圭介を呼び止める。すると、その声に驚いた圭介が振り返った。
「兄ちゃん」
そして、その隣には、彼の婚約者がいた。
「圭くん! 久しぶり!」
西藤朋美。尋生と同じ年で三十二歳。ウェーブの取れかかった茶色い髪はハーフアップにして、お団子のように丸めている。そんな髪型のせいか、はたまた保育士という職業柄なのか、それとも彼女の元来の性格からくる印象か、年齢よりかなり若い雰囲気を漂わせている。二十代半ばといっても通るくらいの容貌だ。
朋美は駅前の保育施設に勤務しており、ここから徒歩十分のアパートに住んでいると聞く。圭介と会うのは久しぶりらしく、嬉しそうな表情を浮かべていた。
「と……朋美さん!」
「元気だったぁ?」
朋美のテンションに圭介が巻き込まれている。尋生はそれに気にせず、近衛に話しかけてきた。
「今日はありがとう。圭介がお世話になりました」
で、どうだった? と尋生が聞きたげな目をしている。近衛としてはまだ結論が出ていないので、さりげなくスルーした。
「今、帰りか?」
近衛がそう問うと、尋生も頷いた。
「朋美がどうしても圭介に会いたいっていうから」
「久々なんだな」
「うーん。最近は圭介がなかなか朋美に会いたがらないんだよね」
家族になるから照れてるのかね、と尋生が苦笑する。よくよく考えたら、圭介も年頃だ。兄とはいえ新婚夫婦の間に入り込むのは健全なのかどうなのか……とは思う。
邪魔できるわけないのにね、という圭介の先程の言葉が蘇る。
「圭くんも一緒に来ればよかったのに。観覧車、夜景がきれいだったよ」
二人はどうやらここから電車で三十分のY市に行ってきたらしい。湾岸沿いの遊園地に大きな観覧車がある。
「でも、さすがに俺がお邪魔できないよ」
苦笑した圭介が朋美をたしなめる。
「そんなことないわよ。わたしは尋生くんと二人もいいけど、圭くんがいるともっと楽しい」
困った表情で朋美を見ていた圭介がふいに詰まったような表情を浮かべた。そして目を逸らす。落ち着かないようで、きょろきょろと視線だけが動いていた。
なにかおかしい、と近衛はその様子を注視する。
圭介はインディゴブルーの細身のジーンズの両ポケットに親指を引っかけて、小さく頷いていたが、とうとう下を向いてしまった。
「圭くん、最近忙しいの? 今度は付き合ってね。一緒に行こう?」
朋美がそう言って圭介の肩に手を置いた。圭介が顔を上げて、そうだね、とぎこちない笑みを浮かべた。
「俺、もう行くね」
会話を一方的に切り上げて、圭介が立ち去る。まるで逃げるように、一人でエレベーターホールに向かってしまった。
「圭介」
近衛の呼び止めにも振り返らない。近衛は追わずにはいられなかった。
「おい、大丈夫か」
なぜ、大丈夫かという言葉が出たのか。自分でもよく分からなかったが、圭介の肩を引き寄せる。
すると振り向いた先の圭介の切なげな表情に近衛は愕然とした。
「……」
息を飲む。すっかり騙されていた。
重いため息の原因は、病気のことでも尋生を朋美に取られてしまうことではなかった。
言葉を失った近衛の反応で、また圭介もすべて悟られてしまったことに気がついたのだろう。
エレベーターはまだ到着していない。圭介は強引に近衛の手を振り払い、非常階段に向かったが、近衛はその場から動くことができなかった。
最初のコメントを投稿しよう!