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(2)歪みの代償
圭介がわずかに見せた表情が、近衛の瞼から離れなかった。
翌日の職員専用食堂で遅い昼食の最中。近衛の脳裏には昨夜のことがよみがえる。
思わず白米が盛られた茶碗を置いてしまう。
ため息が漏れる。
否応なく蘇るのだ。
圭介があんな表情を浮かべる、胸の痛みの原因。
兄の婚約者への不毛な恋心であると。
あの一瞬で悟ってしまった。
肩を掴んで引き寄せたその直後に一瞬見えた素顔。眉間がゆがみ、瞳にはどうすることもできない切ない気持ちと戸惑い、そしてそれを押し隠そうとする意志がせめぎ合っているように見えた。
圭介はいつから、朋美にあんな恋心を抱いていたのだろう。
尋生と朋美は春に婚約したと聞く。圭介の気持ちはそれ以前からなのか。婚約以降ずっとあんな状態だったのだろうか。騙された。まったく気がつかなかった。
あのあと、非常階段に姿を消した圭介を追いかけようとしたが、尋生と朋美が追いついてきた。圭介はエレベーターで先に上がってしまったと思ったのか、朋美はため息をついた。
「わたし、圭くんに嫌われたのかなあ……」
どこまでもマイペースを貫くスタイルの彼女が、めずらしく落ち込んでいた。
「今まで俺と二人だけだったから。多分、家族になるって言われて恥ずかしいんだろう」
尋生のその優しい言葉に、近衛は少し安堵した。このふたりは、圭介の違和感に気づいているが、その原因までに辿り着いていない様子。この二人が相手でラッキーだったろう。圭介は絶対に知られるわけにはいかないと思っているに違いない。
近衛は気持ちを落ち着けるために、お茶を口に含んだ。生ぬるい出がらしのようなお茶が食道をつたって落ちるのを感じた。
互いが唯一の家族である二人にとって、圭介の恋心は下手すると兄弟関係に亀裂を及ぼしかねない気がする。しかも、あの様子から察するに、圭介の方も気軽な気持ちとは思えなかった。
あの感情は、三人の関係性の歪みの原因となっている。その危うさに息が詰まる。圭介が心配だ。彼にとって尋生は唯一の家族だ。
解決は簡単だ。圭介が朋美への気持ちを諦めればよい。本人はどう思っているのかはともかく、あれは不毛な恋心だ、お前のためにはならないから諦めろと、問答無用で告げるのは簡単だ。
しかし、本人も諦められるならばとっくにやっているというところだろう。
白い天井を仰ぐ。ため息を吐いた。
外からでもいい。あの三人の危うい均衡を支える手立てはないだろうか。
「奥田先生」
不意に横から話しかけられて、近衛は驚く。どれだけ自分の思考に深く填まっていたのかと思うが、顔を上げると、循環器内科医師の日向の姿があった。
彼は心臓・血管センターの設立時に、他の病院から引き抜かれた一人で、圭介の主治医だ。
「日向先生」
辛うじて体勢を立て直すと、日向はいいですか、と隣の席に腰掛けた。しかし、手ぶらのため食事にきた感じではなく、近衛に直接用事がある様子だった。
日向は近衛と同年代の、物腰が柔らかな好人物で、腕の立つ内科医だ。
内科と外科は、多くのケースで連携することになるため、医師やナースなどの医療スタッフとの連携や情報共有は欠かせない。
日向は、個々の患者の身体的な病状だけでなく、個人が抱える社会的、家庭的な事情も加味して最善の治療選択をすることができる。的確な診断を下せるのはもちろんだが、患者の気持ちに寄り添える人だ。
「お食事中にすみません。少しお時間を頂きたいのですが」
かまいませんか? と日向がわずかに声を潜める。
「医局で、ご意見を伺いたくて……」
一体なんだろう。近衛はとっさに彼が担当する患者のことだろうと思った。
そういえば、転院してくる患者のカンファレンスに同席してほしいという依頼を受けていたことを思い出す。
「分かりました」
近衛はそう答えて、テーブルを立つ。食器を返却し、食堂の入り口で待つ日向と並んで歩き出した。
「今度転院してくる患者さんのことですか」
近衛はそう尋ねたが、日向は軽く首を横に振った。
「いえ」
彼の眉間に皺が寄っているのが妙に気になった。
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