『隙間から』

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『隙間から』

 隣に座る浮浪者が語り始めるのを、聞くか、聞かないか。  話を聞くくらい、本来なら些細なことではある。  しかしこの浮浪者は、いつのまにか俺の隣に座っていた。音もなく。気配もなく。  この前「最近公園のような場所に足を運んでいないなぁ」と思った俺は、喫茶店業の買い出しの帰り道、公園のベンチに座り、空の下で昼食を取ることにした。  買ってきたサンドイッチを取り出そうとしていると、いつのまにか隣に知らない奴が座っていた。  長めの白髪に長い髭。この季節にニット帽とくたびれた裾の長いコート。猫背で陰気を放っている。  その男が「少し話を聞いてくれませんか」と低いボソボソ声で話しかけてきた。  一目で怪しいと思う男。俺が私服警察官ならば職質し、常識人ならそそくさと移動する確率が高い。あくまで確率だ。「偏見がない」という理由で話を聞くお人好しもいるかもしれない。  しかし重要なのは、この男が気配もなくいつの間にか存在していたこと。  この世に住む超自然の存在を俺は知っている。 「大丈夫です。聞いてくれるだけでいいのです」  男はこちらを振り向くことなく言ってきた。男の顔は俯いており、表情は分からない。 「……いいですよ」  話を聞くだけなら、きっと大丈夫なはずだ。話を聞くと決めると、右手の音は鳴り止んだ。  俺の了承の返事を確認すると、男はゆっくりと話し始めた。 ♦︎  住んでいたのは、1Kの狭いアパートでした。部屋に本棚が三台並んでいます。  ある日、本を一冊読み終えたので、棚に戻そうとしました。そうしたら、気がついたんです。  隙間から、人間のような目玉が二つ。  本棚と本棚のわずかな隙間から、こちらを見つめていました。隙間は5cm程度です。そんなところに人が入り込めるはずがありません。  びっくりして、「ひっ」と声をあげ、持っていた本を床に落としてしまいました。尻餅をついて後ずさり、数秒間くらい、そのまま固まっていました。  しかし一瞬だったので見間違いかと思い、もう一度その隙間を覗き込みました。  狭いアパートなので、本棚は壁に寄せています。そうしたら普通、隙間からは壁が見えるでしょう。でも、そこには何もないのです。真っ黒な闇が、ただ広がっていました。  その闇の中に、ギョロっとした二つの目玉が、やはりこちらを見ていたのです。 「ひっ」とまた声をあげ、今度は大きく距離を取るために、本棚と反対側の壁に寄せているベッドの上に飛び乗りました。目を逸らさず背中を見せないように。  何しろ警戒心がとても強かったので。  そのまま壁に背中を付けるようにして、隙間の目玉を観察していました。何時間も。ずっと同じ姿勢でいました。  しかし目玉は何もしてきませんでした。二つの大きな目玉だけで辺りをギョロギョロと見渡していました。  たまに目が合いましたが、何もしてきません。ただ、そこにいるだけなのです。  ずっと動かずに観察していましたが、何もしてくる気配がありませんでしたので、壁に張り付いていた身をゆっくりと起こして、隣のキッチンルームへ移動し始めました。亀のようにゆっくりとした動きで、隙間の目玉を見ながら。  何しろ、警戒心が強かったので。  隣の部屋に移動できたので、扉を閉めて耳をすませました。しかし、何の音も聞こえてきません。  そして、またゆっくりとその部屋の中に入り、本棚の隙間を確認しました。  目玉はまだそこにいました。  もしかしてこいつは何もしてこないんじゃないか、ただそこにいるだけなんじゃないか。そう思いました。  しかし、警戒心が強かったのです。  隙間を常に気にかけていました。いつでも逃げ出せるように心の準備をしていたのです。  そして夜が来ました。もしかしたら、夜に襲って来るかもしれない。そう思ったので、その日は眠りませんでした。ずっと隙間を見張っていました。  ふと気がつくと、隙間から目玉はなくなって暗闇だけになっていました。そしてその隙間から「スー、スー」という寝息が聞こえてきたのです。眠っていたのですよ。人間のように夜に眠っていたのです。  今思えば、この時に本棚の隙間を塞いでしまうとか、家から飛び出してお祓いとかを頼んだりとか、そういう行動をとっていれば良かったのかもしれません。しかしできませんでした。  何しろ、警戒心が強かったので。  そいつが怒って何かをするのではないかと不安だったのです。  寝ずに見張っていました。そのせいで、ひどい寝不足でした。流石に四日目に限界がきて、つい眠ってしまいました。  朝になって、はっとしました。しかし、隙間のそいつは何もしてきませんでした。ただそこにいるだけなのです。  そんな生活が一ヶ月程経った頃です。  次第に警戒心が薄れてきました。   ある朝起きると、朝食が作ってありました。テーブルの上に、トーストとベーコンエッグとサラダ、コーヒーが並べられていました。  再び警戒心が湧き上がってしまいました。  いつ、どうやって、こいつは、隙間から出て来たのか。  再び眠れなくなりました。しかし、人間ずっと眠らずにいられることなんてできません。眠りに落ちてしまった日の翌朝には毎回食事ができていました。しかし食べずに捨てていました。とても美味しそうだったのに。  しかし警戒心が強かったのです。  毎回毎回、それが続きました。  そのうち、朝食だけでなく、昼食、夕食も用意されるようになりました。しかし、毎回食べずにいました。  隙間の目玉が、いつ這い出て来て、これをつくったのか、不気味でしようがなかったからです。  このようなことが何ヶ月も続きました。  ある日のことです。  その日も帰宅すると、夕食として肉じゃがが用意されていました。しかし、いつもと違いました。手紙が添えられていたからです。  そこには『あなたの好物だったでしょう』と、よく知っている字で書かれていました。  それは死んだ母親の字でした。  はっとして、隙間を見ました。二つの目玉と目が合いました。  すると中から「ゆうちゃん」と、名を呼ぶ亡き母の声が聞こえました。  涙が止まりませんでした。  そして、縋るように隙間に手を伸ばしたのです。そうしたら、隙間から、手を掴まれました。 ♢ 「……話は以上です」  男は口を閉ざした。  隙間にいたのは、男の死んだ母親だったと、そういう話か。 「お母さんのことが好きだったんですね」 「ええ、つい警戒心をなくしてしまう程に」 「そうですか」  良かったじゃないですかと続けるところだが、どこか奇妙だ。  もしそうなら、何故この男はこんなに、暗い雰囲気をしているのだろうか。 「死んだ母親が好きだった……あれ程あった警戒心を解いてしまうほどに」  男は呟いた。 「警戒心が強かったんです。ええ、あの時から。  昔いじめていた奴が、そいつが自殺したとき、『いつか仕返しをしてやる』と遺書に残した。だから、いつでも警戒する癖がついていたんです」 「…………」 「大変でした。警戒心を解くのに、一年近くかかりました」  男はこちらを振り向かず、俯いたまま、ただ大きな目だけでギョロリと、こちらを見た。 「警戒心を解いてようやく……あいつから近づいてくれたんです」  公園内のブランコが、風もなくゆっくりと揺れた。 「雨が降り出しそうですね。梅雨が近いのでしょう。聞いていただき、ありがとうございました」  男がそう言いながら立ち上がった。 「なぜ、俺にその話をしたのですか」  俺がそう問いかけると、男が再びギョロリとした目だけをこちらに向けた。 「ただの興味本位です。あなたなら聞くのではないかと思った。ただそれだけです」  意外な答えに、何も反応できなかった。 「……好奇心は猫をも殺す」  男のその言葉に、右手の指がチクリと痛む。 「警戒心があったがゆえに、あいつは寿命がほんの少し伸びた。しかし……あなたみたいな方は気をつけた方がいい」 「ははは……それはそれは」  充分理解している、と言いたいところだが、この状況では何の説得力もない。 「これは復讐劇。しかし怪異とは、勧善懲悪ではない。誰にでも起こりうる。ゆえに恐怖となりえる。  それだけでも恐ろしいのに、自分から火中に飛び込むようでは……」  そう言いながら、男は歩き始めた。  瞬きをした刹那。もう何処にもいなくなっていた。  説教だったのだろうか。俺はもう、火傷どころではなくなっている。余計なお世話だ。しかし結局最後まで話を聞いてしまっている。これが聞いたものに呪いをかける話だったとしたら……。  “誰にでも起こりうる恐怖”。それこそ隙をついて、突然やってくるのだろう。  今回は良かったが、警戒せねばならない。この教訓が長く続けばいいのだが。  人が何故、好奇心を持つのか。  空いた心の隙間を埋めようと、無意識に働きかけているのかもしれない。  雨に降られないうちに、俺は公園を後にした。 『隙間から』終
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