『やる気を食う怪物』

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「ひっ!」  反射的に椅子から転げ落ち、床に尻もちをついた。ビチャッと、僕の中から水の音がする。  恐る恐る自分の手を見る。僕の手も、腕も、半透明に透けている。動かす度に振動によって身体に波紋が広がる。僕の身体が水に──雨になっているんだ。 「どうして僕が……」 「お前は普通だった。家庭も普通だし、友人関係も普通だし、丁度良かった。  偶々(たまたま)見かけたのがお前だった。ただそれだけ。強いて言うなら、運が悪かった」  目の前の自分、いや怪物が言った。 「平凡なつまらない人生じゃないか。消えたくなっただろう。お前はもう何も考えなくてもいい、何も考える必要のない雨になれるんだ」  ……平凡でつまらない人生。この先もきっと何もない。  雨になって消えてしまった方が楽。そうだ、きっとその方がいい──。  そのとき、教室の後ろのドアが開いた。 「つまらん人生かなんて、他人に決められてたまるかよ。そう思わないか、天宮」  入ってきたのは宇佐木先輩だ。弓道着のまま、左手に弓と矢を携えて。 「……どうして。誰も入ってこられないはずなのに!」  怪物が驚きながら先輩の方を見ている。 「梅雨時のあの生臭い匂い。あれは雨が上がったあとの土の匂いだ。だから降る前の、しかも教室でそんな匂いするわけないんだよなァ」 「し、質問の答えになってないぞ! な、何なんだ、お前……!」 「どうなんだ、天宮。お前の人生、そんな簡単に奪われてもいいのか。別にいいなら放って帰るぞ」  先輩の言葉が、波紋のように僕に伝わってきた。僕の人生が……奪われてしまう。 「…………嫌、です」  あれ……そうだ、どうして消えてもいいなんて思ったんだ。 「……僕は雨になんか、なりたくない」  言った途端、溶けかけていた体が少し形を戻し始めた。 「邪魔をするな」  怪物が先輩に掴み掛かろうと迫っていく。しかし先輩は何でもないように怪物の額を指で弾く。 「天宮、自分を見失うな。こいつより心を強く持て。てめーの人生奪われたくなけりゃ、言葉に出せ」  先輩がそう語りかけた。  僕は唇をグッと噛み、怪物を睨みつけた。 「お前に、お前なんかに奪われてたまるか。平凡でも、つまらなくても、僕のものだ! お前なんかにやるか!」  怪物の身体が揺れる。揺れた場所から波紋が広がった。同時に透明になっていた僕の身体が色を帯び始める。  それに比例するように怪物の身体は透けていく。そのうち僕たちは全く同じ濃度になっていた。 「……い、嫌だ。雨に戻りたくなんてない!」  怪物は両手で僕の首を締めてきた。 「かはっ……」  一瞬苦しくなったが、すぐに怪物の手首を掴んで対抗する。 「離せ、雨に戻れよ……」 「嫌だ、せっかくここまできたのに、お前に分かるか、僕の気持ちが……!」 「知ったこっちゃねーよ……」  力は五分五分だ。どちらも引けない。 「そうだな、頑張ったようだから、手伝ってやる」  先輩が怪物の背後でにやりと笑った。  怪物はびくりとし、勢いよく手を離し、僕を突き飛ばすと、先輩の方へ向き直った。  先輩は弓矢を手にしている左手を動かした。まさか弓矢で退治を──。 「オラァ!」 「ぐえっ」  先輩は怪物の腹に、思い切り右手の拳を突きつけていた。 「ええ?!」  まさかの物理攻撃に思わず叫んだ。  怪物は苦痛な声と同時に何かを口から吐き出した。ふわりと出てきたそれは空中を漂うと、僕の中に流れ込んでくる。これは、こいつが食っていた僕の生気か。 「い、嫌だ、嫌だ……僕はただ、羨ましかっただけなのに……」  僕と同じ姿をした怪物は、絶望の表情で嘆いている。  その時、先輩が優しく言った。 「大丈夫だ。手伝ってやるって言っただろ」  それを聞くと、怪物は目を見開き、次第に穏やかな表情になっていった。  あの言葉は、僕たち2人に言っていたのか。  透明になった怪物はバシャッと水になって空中で弾けた。  空中に飛び散った水は、しばし浮遊したあと、先輩がいつのまにか持っていたボトルの中に吸い込まれていった。 「よし」 「あ……ありがとうございました」 「おう」 「……弓矢を使うんじゃないんですね」 「あ? 教室で弓なんて引いたら危ないだろうが」 「ええ……じゃあなんで持っていたんですか」 「部活の途中だから」 「え……」  ふと時計をみると、1時間も経っていなかった。 「……関わりができたやつには〈向き合う〉と、そう自分で決めているんだ」  先輩はボトルの中の雨水をゆらゆら揺しながら呟くように言った。  そうだ、弓矢とかより、もっと聞きたいことがある。 「先輩はいったい──」 「天宮」  先輩は僕の方を振り向いて、悲しげに微笑んだ。 「お前のおかげで『高校生』も、なかなか楽しかったぞ」 「え──」  ──。  ──あれ?   僕は教室で、1人で何をしているんだろう。 「……うわ、もうこんな時間?!」  時計を見たら部活開始から1時間も経っている。今日は調子良くなかったし、寝てしまっていたんだろうか。  誰かと話していたような気がするけど……誰だっけ。 「すみません。部長、遅れました」 「天宮、大丈夫なのか? 具合悪かったんだろ?」 「はい、でももう良く……あれ、何で知っているんですか」  うちのクラスに弓道部員はいない筈だ。 「そりゃあ、そう報告を……あれ、誰から受けたんだったか」 「…………」  道場に雨の音が響く。  激しい雨の音。  何か、忘れてしまった気がする。  大事な何か……。  ああ、雨は、嫌いだ。  大切なものを奪っていきそうで。 『やる気を食う怪物』終
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