『鏡池』

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『鏡池』

「すみません。お水をいただけますか?」  手を挙げて店員を呼んだ。喉が乾いたから水が飲みたかった。ペリエみたいな高級のミネラルウォーターを注文したわけではない。ただの冷水のおかわり。それだけのことだった。  私の声に気がついた背の高い男性店員がこちらを向いた。私の席のすぐ近くにいた。 「申し訳ありませんが、お客様にはもう、差し上げられません」  彼はそう言った。手には水差しを持っているのに。 「え? 私、注文はしましたよね?」 「ええ。先ほどカフェラテを注文されましたね」 「何故いただけないんですか?」  注文をした以上、私は客のはずだ。 「カフェラテをご用意したいのですが、その時間さえも与えてくれません」 「どういう意味ですか?」  水が飲みたい。それだけなのに。この人は何を言っているのだろう。 「気がついていないのですか?」 「……何を?」  店員は眉を下げて困ったような表情をする。 「あなたがこの店に来てから、まだ5分も経っていません。それなのに」  店員は見せつけるように、空のグラスを私に近づけた。  グラスに残っていた僅かな水滴が、ガラスを伝って、ポタリと落ちる。 「先ほどで、もう25杯目ですよ」  ぼやけていた意識が鮮明になるのを感じる。それと同時に、胃の中から破裂しそうなほどの膨張感が押し寄せた。 「う……」 「大丈夫ですか?!」  店員──おそらく店主だと思う──がビニール袋をエプロンのポケットから取り出し、私の前に広げた。  耐えきれず、私は口の中から水を吐き出した。 「はぁ、はぁ……すみません……」  店主の男性は優しく私の背中をさする。「こちらのことはお気になさらず」  ポケットにビニール袋を入れ、すぐに準備していたあたり、私の水を大量に飲む光景がよほど異常だったことを物語る。 「そういえば……朝も気がついたら、空になったミネラルウォーターがいくつも床に転がっていて……」 「その時のことを覚えていないんですか?」 「はい。でも、何故だか異様に『水を飲ければ』という気がして。ちっとも飲みたくはないはずなのに。そして気がついたら……」 「一時的な記憶欠損……精神的なものでしょうか……心当たりはありますか?」 「心当たりですか……」  ──いいかい? あそこの池には水神様が住んでおる。  決して汚しちゃならねぇよ──。 「これはきっと……鏡池の呪い」  静かな店内が、より一層静かになったような気がした。 「呪い?」 「す、すみません。変なこと言って」 「いえ、大丈夫ですよ」  店主さんは優しく微笑んだ。その笑顔に少し安心する。 「今……」店主さんは表情を崩さなかったが、少しそわそわとし始めた。 「この店には他に客はおりません。店員も自分だけ。  気に病んでいることがあるのでしたら、よければお話をお聞きしますが」 「その……」 「自分はここの店主の熊崎(くまざき)森太郎(しんたろう)と言います。  ただの経営者ですが、お話をお聞きすることはくらいはできますよ」  熊崎さんは正面の椅子に座り、満面の笑みを向けた。 「……でも」 「…………呪い」 「え?」 「呪いって言いましたよね。さっき。何ですソレ?」心なしか、先ほどより早口だ。 「し、信じてくださらないかも」 「信じますよ、大丈夫です」 「しかし……」 「話した方が解決策が見つかるかもしれません。それにほら、話をしている間はお客様、水を飲もうとしていませんよ。きっと気が紛れるんです。  お話を続けていた方がお客様のためにいいのではないでしょうか?」  先ほどよりも、更に早口になっている。穏やかに話しているが、目が笑っていない。私の心配をしているようで、自分が話を聞きたいだけ。そんな気がする。  でも確かに、話をしている間は水を飲んでいない。かなり妙な人だが、話をしてもいいのかもしれない。 「三日月町の東にある、ハナミズキ公園。そこに『鏡池』と呼ばれる池があるんです。その池には昔から水神様がいると言われています」 「水神様、ですか……」 「昨日、息子とそこに行ったのですが……目を離した隙に、息子が池に入ってしまって……その……息子を池から引き上げるとき、私も池の中に入ってしまって。そのとき池の魚を……」 「魚を……」 「魚を殺してしまったんです。それからなんです。気がつくと、いつのまにか水を飲んでいる……。  きっと水神様が、魚を殺した私に罰を与えているんです」  ──池の中で魚がバタバタと悶えていた。  魚は苦しみながら膨れ上がり、ゴボゴボと音を立て、見るにも絶えない姿になっていく。  醜い魚が、私に語りかける。  お前も同じ姿になってしまえと──。 「お客様!」  熊崎さんの叫び声。  気がつくと、目の前には勢いよく流れ出る水道口。  熊崎さんは私を後ろから羽交い締めにしていた。  私は水道から水を飲もうとしていたのだと理解する。 「あ……私……」  私は全身の力が抜け、その場に座り込んだ。  流れ出る水の音が、店内に響いていた。  店のドアが静かに開いた。ゆらりと何かが入ってくる。  私は反射的にびくりと身体を震わせた。 「おい、森太郎(しんたろう)。中に何がいるんだ」  入ってきたのは黒い和服を着た青年だった。気だるそうに入店し、私たちを見て怪訝そうな顔をする。 「月光(げっこう)、ちょうどよかった。助けてくれ」  月光と呼ばれた青年は露骨に嫌そうな顔で熊崎さんを見る。明らかに関わりたくないといった表情だ。 「部活で少し疲れているんだが」  部活、ということは学生、高校生くらいなのだろうか。それにしては妙に落ち着いた雰囲気の青年だ。それに異様なほど、顔が整っている。整いすぎて逆に不気味なくらいに。しかしその顔に、つい魅入ってしまう。  私の視線に気がついたのか、青年と目がしっかりと合ってしまった。 「……はぁ」  青年はため息をつくと、私を見据えた。「とりあえず、そこから移動したらどうだ」  途端に私の足に力が入った。よろよろと、何とか立ち上がる。 「席に戻りましょうか」熊崎さんに支えられながら席へと戻る。 「……俺が入ってきた時、一瞬何に見えたんだろうな」  青年はうっすらと笑みを浮かべながら呟いた。  席に戻ると、私の正面に青年が、その隣に熊崎さんが腰掛けた。 「彼は幼馴染の宇佐木(うさぎ)月光(げっこう)といいます」  熊崎さんがにこやかに青年を紹介した。高校生の幼馴染とは、熊崎さんは何歳くらいなのだろう。てっきり30代くらいだと思っていた。  宇佐木さんは熊崎さんを軽く睨みつけたあと、私の顔をまっすぐに見つめた。  目つきは鋭く無愛想だが、その瞳は強い眼差しをしている。どこか神秘的だし、こういう話に詳しいのかもしれない。  私の話を聞き終わったあと、宇佐木さんは呟いた。「最近のミステリーってさ」 「え?」 「忘れている結末が多いよな。自身が犯したことを忘れていて、最後にそれを思い出す。そういった話が増えている気がするんだよなァ。  大衆が嫌なことを忘れようとしたいがために、そういったものを好むのかね」 「なんの話ですか?」 「人は忘れたがるんだ。都合が悪いことを。自己防衛本能ってやつだ。しかし深層心理では覚えている。だから無意識の行動に現れる」 「私は何か、忘れていると?」 「人の記憶ってやつは曖昧だからな」  この人は、私の話を信じていない。  あくまで精神的な問題だと、呪いなどではないと言っている。 「あんたが殺したのは、本当に魚か?」 「そうです。それで鏡池の水神様が怒って」 「あの池が、何故『鏡池』と呼ばれているか、知っているか?」 「……知りません」 「鏡のように、澄んでいたんだ。池と向き合うと、鏡のように自分を映せた。だから『鏡池』と呼ばれるようになった」 「今は違うのか」熊崎さんが言った。 「お前、あそこに行ったことないのか」 「公園に行く用事なんてないからな」 「今も綺麗な池ですよ」  そう、透きとおった綺麗な池だった。  宇佐木さんは目を細める。 「あんたが水を飲むのは無意識の行動だ」 「これは呪いです」 「随分と、呪いにしたいように聞こえるな」 「私は忘れていることなんて」 「本当にないのか?」 「ない……と思います」 「じゃあ質問を変える。  なぜ水神は水を飲ませようとするんだ?」 「……殺す気なんです、私を」 「水で?」 「聞いたことがあります。水中毒というものがあると」 「医学に詳しい神様なんだなァ」 「…………溺れさせようと」 「へぇ」 「私が魚を溺れさせたから、私も溺れさせようと……」 「魚を溺れさせた?」宇佐木さんは馬鹿にしたようにへらっと笑う。 「こいつは驚いた。魚は水の中で溺れるのか」 「ま、間違えました! 魚を押しつぶして」 「もう一度聞く」  宇佐木さんは鋭い眼差しで私を見た。 「それは本当に魚か?」  ──沈んでいく。  魚は苦しみながら膨れ上がり、ゴボゴボと音を立て、見るにも絶えない姿になっていく。  口から水を吸い込んで。  空気を出して、水を吸い込み続けて。  手足を悶えさせて。  苦しそうに。  私の腕を掴んで──。 「あ……」 「あんたの答えは?」宇佐木さんが諭すように言った。 「私が殺したのは……」 「………………」  そうだ。  私が殺したのは。 「…………さかな」 「……それが、あんたの答えか?」 「はい……魚です。殺したのは、魚」 「へぇ……」 「だから、私は、悪くない……」    宇佐木さんの目つきがさらに鋭いものへと変わった。獲物を逃がさない猛禽類のように私を捉える。その鋭い目つきが、突き刺さる。 「何ですか、その顔、酷いじゃないですか、私は魚を殺してしまっただけ。それにあれは事故。……熊崎さん、何とか言って下さい」  助けを求めるように熊崎さんの方を見た。  しかし熊崎さんは月光さんの態度を確認すると、私を冷ややかな目で見つめた。 「罪の意識ゆえの、良心からの行動かと思って俺はあんたと向き合うことにしたんだ」宇佐木さんが言った。 「な、何を言って」 「しかし残念だ。あんたがどうなろうと、もうどうでもいい」  宇佐木さんは私から目線を外し、背中で椅子にもたれかかった。 「待ってください!これは呪いなんです。助けて下さい」 「あそこに水神なんて、もういねぇよ」 「え……?」 「あの池はとっくに死んでいる。綺麗な池だって? よく言うぜ。あんな腐った水で魚が住めるかよ」 「水神とやらはいないのか」熊崎さんが言った。 「ああ、いたとしても、お前のソレを解決してくれる奴じゃあない」 「そうか、そいつは残念だ」 「あ、あの……」 「あ? もう水を大量に飲むことは起きないぜ。あんたが良心を切り捨てる選択をしたからな。良かったじゃあないか、解決して」 「……解決した?」 「ああ」  そうか、大丈夫なんだ。私は水を飲みすぎて死ぬこともない。あれも事故だって、警察は言っていた。 「あはは……」自然と笑みが溢れた。  もうこれで安心──。 「息子さん、これ以上待たせていたら風邪を引くんじゃないか?」 「へ……」 「駄目だろう、小さい子をひとり外で待たせたら」  宇佐木さんは店のドアを指さす。  何を言っているの、この人は。 「そ、そんなはずない!」 「どうして、そんなはずないんだ?」 「それは……」  息子がそこにいるはずない。  だって、息子は──。  宇佐木さんが、にやりと不敵な笑みを浮かべた。  席から立ち上がり、私の腕を掴む。軽く引かれると、私は何故か自然と椅子から立ち上がってしまった。  そのまま腕を引かれ、私をドアの前に連れて行こうとする。 「い、嫌……」 「どうしてそんなに怖がっているんだ? あんたが殺したのは魚なんだろう?」  そう言いながら嘲笑(わら)っている。  店のドアの前まで来てしまった。  このドアの先に、行きたくない。  それなのに、身体が勝手に動く。私の意思を無視して、手はドアノブを握る。 「鏡池は自分を映す」  宇佐木さんが私の横でそっと囁いた。  黒く塗りつぶされた顔に、三日月のような笑みだけが浮かんでいるように見えた。  その何もない顔が私を裁く。 「精々、自分の罪と向き合うんだな」 『鏡池』終。
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