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恋心
高校卒業を間近に控え、美紀は自分の体の変化に気付いた。
それは運動不足から来る筋肉の衰えだった。
(そう言えば、最近行ってなかったな)
美紀は中学時代に良く通った軟式テニス場を思い出していた。
(久しぶりに行ってみるかな、叔母さんを誘って)
美紀は次の日曜日に無料のソフトテニスの練習場へ沙耶を誘うことにして電話を掛けた。
沙耶も珠希同様、中学時代から軟式テニス部に所属して頑張っていたのだった。
其処は市の中心部にある神社の裏手にあった。
月曜から金曜の九時から三時まではそれぞれの団体が使用する。
その後は、テニスコートを持たない中学の練習場にはり、土日は一般市民に解放される。
其処はそんな軟式場所だった。
勿論、ネット張りからブラシ掛けライン掃きまで遣らなくてはいけない。
でも一汗掻くにはもってこいだったのだ。
コートは四面あった。
その中の二面が公民館所属チームの練習場だ。
その他の二面は早い者勝ちで使用出来た。
だから朝はみんな早くから来て練習していた。
充分なウォーミングアップの後無心にボールを追っていると、悩み苦しんでいる全てのことが夢のように思えてきた。
(叔母さんも楽しんでくれたら嬉しいな)
美紀は沙耶から繰り出されたボールをはリターンする度に、珠希の遺したラケットが喜んでいるような錯覚を感じていた。
沙耶は今ボールを受けている相手が姉の珠希に見えていた。
沙耶は珠希と良くこの軟式テニス場に通って、ボールを受けていたのだ。
無我夢中で走り回っているうちに力をつけていた沙耶。
沙耶も、珠希の弟子とでも言えるような存在だったのだ。
「今日誘ってくれてありがとう」
クールダウンの終了後、沙耶は美紀に握手を求めた。
美紀が躊躇いがちに手をそっと出す。
すると、その手を強く握り締められた。
「美紀ちゃんのテニスって、お姉さんソックリなんだね」
ポツリと沙耶は言う。
美紀は嬉しい反面複雑だった。
「お義兄さんは幸せ者だな。二人の……、ううん三人の女性から愛されて」
沙耶のその言葉に美紀は思わず舞い上がった。
三人。それは、美紀の中に巣作っている二人の母と自分だと思った。
「どんなことがあってもお義兄さんから離れてはダメよ」
沙耶はウインクを美紀に送った。
でも正樹は、美紀を自由にしてやりたいと思うようになっていた。
定期的き連絡を取り合っている大阪の美紀の祖父は、美紀の出現で新しい人生をスタートさせようとしていた。
もう一度光輝くために……
優しい孫娘に又逢いたいがために……
リハビリも積極的になり、健康な生活を送るようになった。
正樹はそんな大阪の祖父の元へ、美紀を返そうと思い始めていた。
勿論、大に美紀を託せるかどうかも視野には入れている。
でも、大阪に行けば何不自由なく暮らして行ける。
何も好き好んで、この家で苦労を背負い込まなくても良いだろう。
だからそれとなく、匂わせていた。
正樹はまだ、秀樹と直樹の大阪行きを知らない。
美紀の祖父が、その気になっていることも知らないでいたのだ。
美紀が珠希の背中を追っているのは知っている。
珠希と同じように、自分の犠牲になることさえも覚悟の上だと……
そのために短大を選んだことも知っている。
自分に内緒で必死に遣り繰りをして、短大の授業料を捻出させたことも知っている。
でも……
美紀を羽ばたかせてやるのが親としての責務だと認識し、沙耶に相談することにしたのだった。
自分へお見合いを勧めた沙耶。
もしまだその話が生きているなら、もう一度考え直そう。
そう思っていた。
美紀を諦めるためだった。
美紀に諦めさせるためだった。
どんなに好きでも。
どんなに愛していても。
それが一番良い選択だ。
苦しみもがいた末に、正樹はやっと決意した。
正樹は辛い決断をした。
しざるを得なかった。
美紀を思えばこその判断だった。
泣かれることは解っている。
蔑まれることも勿論承知の上だ。
でも正樹に出来ることはこれ位しかなかった。
お見合いの相手を愛せるかどうかも心配だった。
(でも……沙耶さんが勧めてくれた人なら間違いないだろう)
正樹はそう判断して、沙耶に連絡を入れたのだった。
おりいって相談があると。
正樹はその時、本当に美紀の幸せだけを祈っていた。
願い続けていた。
そのためならどんな苦労も厭わない。
そう思っていた。
子供達が学校へ行っている時間。
正樹と沙耶はルーフバルコニーにいた。
少し高台にある長尾家。
長閑な田舎の風景が眼下に広がる。
「花火大会の時には気付かなかったけど、此処って凄く気持ちいいのね」
空気を感じるために沙耶は深呼吸をする。
「姉が此処を買いたくなった理由が解るわ。私悪いこと言っちゃったかな?」
沙耶はそう言いながらもう一度両手を大きく広げた。
「コレなのよね。この雰囲気をみんなで楽しみたかったのね。私解ってやれずにキツいことばかり言っていたわ」
沙耶はうっすら涙ぐんでいた。
今日の沙耶は何時に増しておしゃべりだった。
沙耶は久しぶりの正樹ののツーショットに舞い上がっていたのだ。
「ところでお義兄さん、おりいっての相談って?」
(良かった……)
正樹は素直にそう思った。
沙耶が切り出してくれたお陰で、正樹はやっと本題に入ることが出来る。
(でもどうやって話出せば……)
正樹は少し躊躇しながら、それでもやっと話出した。
「以前勧めてくれたお見合いだけど……」
正樹は恐る恐る沙耶を見ていた。
「えっ、お見合い!?」
沙耶は目を丸くして、正樹を見た。
「だからそなの、もう一度考え直そうかと……」
「何考えてるの!?」
沙耶は正樹に詰め寄った。
「美紀ちゃんはどうなるの!? あんなにお義兄さんのことが好きなのに!」
沙耶の剣幕に正樹はたじたじになった。
「解っているの!? お義兄さんは三人の女性から愛されているのよ!」
「三人!?」
「そう三人。何故美紀ちゃんが子供の頃から『パパのお嫁さんになる』って言っていたか解る? 結城智恵さんが言わせていたの」
「えっ!!」
正樹も目を丸くした。
「好きだったのよ! お義兄さんのことが。大好きだったのよ!」
沙耶はとうとう泣き出した。
自分でも解らない感情が沙耶を支配していた。
(三人か……)
沙耶は俯いた。
本当は三人ではないことに気付いて……
「そんな!? 俺は結城智恵が好きだった。守ってやりたかった。でも珠希に出会い俺は変わった。素直になれた。守って貰いたくなった」
でも、聞き捨てならないことを言い出した正樹を又見つめる羽目になった。
「守って貰いたく?」
遂に沙耶は正樹に詰め寄った。
「うん、そうなんだ。珠希の前だと子供のままで居られた。だから俺は思いっきり甘えられた」
「お姉さん正樹さんに夢中だったものね。だから甘えさせてあげられた」
「うん。珠希には本当に感謝しているプロレスラーになりたい夢も叶えさせて貰った」
「でも、私だって面食らったわよ。何で同級生をお義兄さんと呼ばなくてはいけないんだって。でも少しだけお義兄さんの方が産まれ月が早かったから良かったけどね」
そう……
沙耶と正樹は中学の同級生だったのだ。
だから沙耶は色々と忠告出来たのだった。
キツい言葉も掛けられた訳だった。
結城智恵が初恋の相手であることも知っていた。
だから産婦人科での再会を知った時、正樹の子供ではないかと疑ったのだった。
でも……
沙耶も悩んでいた。
正樹は沙耶の初恋の相手でもあったのだ。
三人ではない……
自分も含めて四人だったのだ。
小学校だけは別だったけど、保育園から高校まで二人は一緒だった。
沙耶は正樹にあるトラウマを抱いていた。
本当は正樹を怖いと思っていた。
でも突然恋に堕ちた。
それは、結城智恵の影響だった。
『本当の出身地はコインロッカー』
結城智恵が言ってた本当の理由も知っていた。
正樹を好きだからこそなのだと。
だって結城智恵の視線の先には何時も正樹がいたからだった。
そして……
沙耶も気付いたのだ。
正樹を思う自分の心に……
でも沙耶は正樹の本当の気持ちを知ることになる。
正樹も結城智恵が大好きだと言うことに。
結城智恵と正樹はそれとは知らず、相思相愛だったのだ。
だから沙耶は恋しい気持ちを封印せざるを得なかったのだ。
あの美紀の告白を、沙耶は冷静に聞いていた。
美紀を応援したいとも思えてきた。
思い出は思い出として、心の中に閉まっておこうと思えるようにもなった。
嫉妬から、正樹にお見合いを勧めた。
でもそれによって、未だに正樹を思う気持ちに気付いてしまった沙耶だった。
(本当は今でも大好きなのよ。アナタを……お義兄さんを……)
でも沙耶には家族が居る。
婿養子になってくるた旦那と子供達も居る。
沙耶は複雑な心境で、正樹を見つめていた。
正樹は高校総体の、軟式テニス地区予選の応援に行った。
その時、隣のコートでプレーをしていたのが珠希だった。
その技術力に圧倒され、拍手喝采を送った正樹。
非の打ち所もない前衛。
珠希は高校生でありながらプロ級だった。
自校の応援そっちのけで珠希に見入った正樹。
その正樹に一目惚れした珠希。
二人はこうして恋に堕ちたのだった。
その恋のキューピットになったのが沙耶だった。
望んでもいないのに……
こうなることなど予想もしていなかったのに……
結果的に沙耶は、珠希と正樹の出逢いを演出したことになったのだった。
沙耶も姉の後を追い、ソフトテニスの前身軟式テニスの道に入ったのだった。
偶々同じ日に姉の珠希も試合をしていたのだ。
インターハイの予選会に一年生が出場する。
沙耶もそれほど凄い名プレーヤーだったのだ。
正樹が応援に行ったのは、沙耶の所属しているクラブだったのだ。
それも沙耶が頼んで……
だから沙耶は、ずっと後悔していたのだった。
『姉と正樹さん、インターハイの地区予選会場で出会ったの』
美紀にはそう説明した。
自分から誘ったなんて言えなかったのだ。
『正樹さんは先輩の応援に来ていたの。学校は違っても同じ町の仲間として意気投合して』
美紀にはそう言いながら沙耶は苦笑していた。
自分から頼んだなんて言えるはずがなかった。
それは、本当は正樹を愛していると告白するに等しい行為だったから。
まさかのハプニング。
そんな光景だった。
姉の、珠希の視線の先に正樹がいた。
自分の恋しい正樹を見つめていた。
姉が正樹を奪った瞬間だった。
悪夢だと思った。
悪い冗談だと思った。
でもそれで済まなかった。
二人は出逢いから二年半を経て結婚したのだった。
大好きな軟式テニスと正樹をゲットするために、珠希が選んだ道。
それが、中学での体育教師だったのだ。
市の体育館の中に無料ジムがあった。
一度器具の取り扱い講習を受けるとカードが発行され、何時でも自由に使用出来た。
二人は早速一緒に講習会に出席後、トレーニングを開始した。
柔軟体操。
トレーニングマシン。
ランニングマシン。
それらを一緒に行う。
苦痛であるはずの強化メニューを、楽しみの道具に変える二人。
二人は二人で励まし合うことでお互いの体を鍛えようとしていたのだった。
この施設にあるのは、レッグプレスマシンやラットマシンなどの筋肉強化種。
ドレッドミルやエアロバイクのような有酸素運動系種。
休んだり柔軟体操なども出来るマットも常設されていた。
至れり尽くせりの品揃えで無料なのだ。
珠希はそれが嬉しくてならなかった。
正樹はマットの上で、受け身の練習を欠かせなかった。
「プロレスやるには柔道が一番よ。でも寝技足技の前に受け身をしっかり身に付けなくちゃね」
珠希の言葉を何でも受け入れ、それ故に成長し続けた正樹。
やはり正樹にとて珠希は勝利の女神だったのだ。
二人のデートコースは決まってその施設だった。
それだけ珠希は正樹の筋肉作りに邁進したことになる。
珠希はエクササイズの本を図書室で借りて読みあさり、正樹だけではなく自分の筋肉も強化したのだった。
珠希と一緒に居られることで成長する正樹。
高校を卒業する頃には、すっかりプロレスラーの体が出来上がっていたのだった。
柔道は高校での体育授業で必須科目だったので胴着は既にあったのだ。
なるべくお金かけたくないと思う珠希らしい発想だった。
だから正樹はどんどん力を着けていけたのだった。
「珠希は一生懸命だった。だからそれに報いるために頑張った。こんな小さな体でプロレスラーになれたんだ」
正樹は又泣いていた。
「こんないい加減な奴が美紀を好きになっても良いのだろうか?」
「何処が?」
沙耶はやっと笑った。
「お義兄さんは、真面目過ぎるほど真面目だと思うけどな。だから美紀ちゃんが好きになったのよ。堂々と告白したら?」
沙耶はウィンクをした。
「それともう一つ気になることがあるんだけど。あのーもしかして、美紀ちゃんの中にお姉さんを感じていない?」
沙耶はきっぱりと言った。
正樹は頷いた。
「やっぱり……。実は私も感じていたの。美紀ちゃんには姉も憑依していると思うのよ」
「だから、一生懸命世話をやいてくれたのか?」
沙耶は頷いた。
「あの事故の時、きっと美紀ちゃんに……。だってお義兄さんに生きていてほしかったからよ。でも……」
そう言って沙耶は少し口ごもった。
「私は花火大会の日に美紀ちゃんの中に珠希姉さんを感じたの。そして美紀ちゃんと話をして全てを悟ったのよ。お義兄さんを助けるために憑依したのだと」
沙耶はやっと言った。
「俺は最初ヘアースタイルのせいだと思っていた。珠希の誕生日に何時ものように髪を下ろした美紀が、珠希と重なっただけだと思い込もうとしていたんだ。余りにも苦しくて」
正樹は泣いていた。
バレンタインデーの夜。
美紀の襲撃を受けた時、無理やり抑えた身体が疼く。
正樹は未だにあの日の自分と戦っていたのだった。
「苦しいんだよ、美紀を見るのが。傍にいられると珠希を感じて」
正樹は激しくテーブルを叩いた。
その手を沙耶は止めた。
「自分を傷付けてどうするの? お姉さんが悲しい思いをするでしょう? ねえ、思い出してみて、自分が何故生かされたのかを」
「生かされた!?」
その言葉に沙耶は頷いた。
「お義兄さんは、お姉さんと結城智恵さんによって生かされたたの。お義兄さんに生きていてもらいたかったからよ」
「そうか、俺はあの時珠希と結城智恵さんによって生かされたのか。俺はさ迷っていた。生死の狭間で漂っていた。傍に珠希がいなくて探し回っていた。その時に見た気がする。誰かが珠希の霊に寄り添っていたのを。追いかけたけど見失って目覚めたんだ」
「あっ、もしかしたらその時かも知れない。美紀ちゃん突然意識不明になって倒れていたわ」
「その時に美紀に憑依したのかな?」
「解らないけど、きっとそうね。結城智恵さんが迎えに行ったのよ。二人で見守ろうって……。ほらやっぱりそうでしょう? やっぱり美紀ちゃんの中には、姉と結城智恵さんが居るのよ」
沙耶はそう言いながら、正樹の手を強く握った。
「でも……だからって、俺でいいはずがない」
それでも正樹は決意出来ずにいた。
「俺は考えていた。誰も傷付かない方法を」
正樹の脳裏に大の笑顔が浮かんだ。
正樹は本気で大に美紀を託そうと思っていたのだ。
「でもね、お義兄さん。今の美紀ちゃんにはお義兄さんだけなのよ。お義兄さんしか居ないの。だって、本当にあの子お義兄さんを愛してる。だから……だから、大事にしてあげて」
正樹を説得しながら、沙耶は不思議に思った。
何故、こんなに一生懸命になっているのだろうと。
「美紀を自由にしてやろうと思ったんだ。ただそれだけだった」
正樹の話を聞きながら、あれこれ思いを巡らす沙耶。
そしてある結論に達する。
(もし本当に姉が憑依しているとしたら、それは義兄の傍にいたいからだ。大阪に行くためじゃない。大阪に行かせたら駄目だ)
と――。
「駄目よ! 美紀ちゃんをちゃんと捕まえてあげなくちゃ。お姉さんが憑依してても良いじゃない! 二人、ううん三人分愛してあげれば良いじゃない!」
訳の分からない感情に支配された沙耶。
不思議だった。
何故こんなにも一生懸命なのだろうと。
だって本当は、美紀に正樹を取られたくないのだ。
今でも自分は正樹が大好きなのだ。
でも……
沙耶は言い終わってから思った。
姉が……
珠希が言わせたことではないのかと。
沙耶はもう一度大きく深呼吸をする。
これで良いのかと珠希に聞くかのように。
そして再び、恋心を封印することを亡き珠希に誓っていた。
(お義兄さんの考えは解っているわ。きっと大君に嫁がせたいのね。でも美紀ちゃんもお姉さんもお義兄さんじゃなくちゃ駄目なの。そう私が一番解ってる)
沙耶は空を見上げた。
心なしか暖かに感じた。
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