沙耶のトラウマ

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沙耶のトラウマ

 「センセー。又、マー君がサーちゃんを泣かせてるよ」 市立松宮保育園の園長室に年長組の幼児が駆け込んで来た。 又、というのには訳がある。 マー君こと西村(にしむら)正樹は、サーちゃんこと有田沙耶に悪戯するのだ。 それも覚えたてのプロレスの技を掛けて。 「あっ、昨日は確かプロレス中継が……」 言い終わらない内に急いで保育士が教室に向かうと、西村正樹が有田沙耶に案の定プロレス技を掛けていた。 「コブラツイストだー」 正樹は泣き叫ぶ沙耶相手に完全に悦に入っていた。 コブラツイストは別名グレイプヴァインと言い、葡萄の蔓のょうに体に巻き付くところから命名されたそうだ。 そう…… 正樹はプロレス中継の後で技を父親から教えて貰っていたのだった。 でも父親だって、女の子に技を掛けるため教えている訳ではないらしいのだが。 「あの親子は困ったもんだ」 それが何時しか保育園の共通語になっていた。 それは正樹の父親が保育園にお迎えに来た時に、駆け付けるための口実でもあったのだ。  「やめてよー!!」 沙耶は必死もがいたが、小さな沙耶の体にまとわりついた正樹の手は容易に外れなかった。 「止めなさいー、西村君!!」 先生は慌てて、二人の元へ駆け付け正樹の手を外そうとしたが手強かった。 沙耶は園長先生に必死に助けを求めたのに正樹は沙耶を放そうとはしなかった。 気付かない。 とでも言うのか? 正樹は自分の技に酔っていたのだ。 だから保育士達が傍で頑張っていても、更に強く締め付けたのだった。 正樹は、沙耶の鳴き声を勝ち誇ったように聞いていた。 昨日見たプロレスラー。 あのようになりたいと常に夢見ていたのだった。  仕方ないので無理矢理二人を引き離すことにした。 覚えたばかりで、得意になっているのだろう。 全然、気にもしていない様子だった。 「女の子にこんなことしちゃ駄目!!」 先生はそう言いながら必死に形相で正樹の腕と足を外した。 「だってパパは、本当は全然痛くないだって言ってたよ」 「大人にはそうかも知れないけど女の子には耐えられない痛さなの」 「嘘だー」 沙耶は保育士達によって正樹の魔の手からやっと外れることが出来てホッとしていた。 でも正樹は、今夜は沙耶の足を持って足四の字固めを決めてしまった。 「ギャー!!」 沙耶は悲鳴を上げた。  足四の字固めは掛けられた姿が四の字のようになったところから命名されたようだ。 まず体を回転させ、相手の膝を取り左足を被せてロックする。 足が太ければ太いほど強烈に締まり、なかなかほどけない。 良く掛けた方が反対の体制になれば痛みは移動すると言われる。 でも大した痛さではないと言い切った強者も存在していたらしい。 大人の見るテレビで子供は情操教育される。 正樹の父親は無類のプロレス好きだった。 でも彼は病んでいた。 だから残り少ない日々を息子との交流に当てていたのだった。 女の子を苛めるためでも悪戯させるためでもなかったのだ。  正樹の父親がお迎えに来たのは、病院からの帰りだった。 それに気付いた職員は我先にと彼の元を目指す。 「今日も又息子さんが女の子に悪戯しましてね。あのプロレス技何とかなりませんか?」 職員達は口々に今日の正樹の報告をする。 でも本音はそんなこと言うためではない。 ただ単に、彼に会いたかっただけなのだ。 そうあの言葉は、そのための口実だったのだ。 「私はもう少しで死ぬ人間です。だから息子との思い出作りに始めたのですが……」 彼は手を組んで考え始めた。 薄幸の美青年? と言うべき存在。 彼は不治の病を患っていて、明日をも知らぬ身体だったのだ。 それが人気に拍車をかけていたのだった。  「そうだ、痛い思いをさせればいいんだ」 彼はそう言いながら、辺りを見回した。 「痛い思いって、お子様はパパは本当は痛くないって言っていると……」 「本当は私も少しは痛いのですが、アイツが心配するもんだから……あ、それと……アイツがプロレスラーになるなんて言い出したから、本当はパフォーマンスで痛がっているだけだなんて教えちゃったからかな?」 「痛そうな演技をしているだけってことですか?」 「はい。すいません。あ、あの子が良い」 丁度その時、珠希が沙耶のお迎えに来たのだ。 珠希は小学生だったが、両親が忙しい時にはお迎えを頼まれるのだ。  彼は早速珠希に手招きをした。 でも珠希はその男性を見て固まっていた。 正樹の父親の超美形な顔に釘付くになってしまったのだった。 それでも彼の提案を珠希は快く引き受けた。 正樹のプロレス技に頭を痛めていたのは彼だけじゃなかったからだ。 沙耶が泣いて帰る度、珠希は正樹を懲らしめたくてしかたなかったのだ。 彼は珠希にこっそり四の字固めを教えた。 珠希は活発な女の子だったけど、そんな経験はしたことはなかった。 でも面白がって正樹に掛けたのだ。 本当は、正樹の父親の前でこんな恥ずかしい格好をしたくない。 だって足四の字固めは、両足の間に相手の足を挟んで締め上げる技だから。 それでも精一杯やったのだ。 「痛い!!」 正樹も泣き叫んだ。 でも彼は許さなかった。 「掛けてる本人は痛みは解らない。でも掛かった人は……」 「解った。痛いから早く辞めさせて」 正樹は初めてギブアップしたのだった。 正樹はその日以来、二度と沙耶にプロレスの技を掛けることはなかった。 それでも沙耶は、心に深い傷を負ったまま成長していくしかなかった。 それは何時の日にかトラウマとなっていったのだった。  身も心も大人になりつつあった沙耶。 でも沙耶には傷があった。 それは幼稚園時代に西村正樹に掛けられたコブラツイストと四の字固めの痛みだった。 松宮中学校は二つの小学校の子供達が集合する。 だから沙耶は憂鬱なのだ。 又あのヤンチャ坊主の正樹と再会するかも知れないからだ。 そう思うと足が心が疼いてくるのだ。 それでも沙耶は、今日から始まる中学生活を夢見ていた。 部活は軟式テニスに決めていた。 姉の珠希が部長をしていたからだった。 珠希はその頃から頭角を現していた。 だから沙耶は憧れたのだった。 あの日。 正樹を懲らしめてくれた感謝の意味でも。  入学式前。 貼り紙を見てクラスに行き、持って来た荷物を自分の名前の貼ってある机の上に置いた。 そのついでに、一つ一つ確認したが西村正樹の机はなかった。 「良かった」 沙耶は安堵の胸を撫で下ろした。 (これで虐められなくて済む) 沙耶は安心して教室を後にした。  入学式の会場の体育館へと向かう階段を降りていると一人の男性と体当たりしそうになった。 その途端に足がむず痒くなった。 「あ、マー君……」 何故解ったのだろうか? それは沙耶の感とでも言うのだろうか。 「ん、誰だお前? あ、泣き虫サーちゃんか?」 その言葉にムカついた。 (誰が泣かせた? あんたじゃないのか!?) 沙耶は思わず正樹を睨んでいた。 「何だよお前」 正樹のその言葉に肩がビクッと上がった。 (あー、やはり無理だ。コイツには勝てそうもない) 沙耶は更に落ち込んでいた。  突然現れた正樹に沙耶は動揺した。 でも正樹は平気な顔をしていた。 保育園の時泣かせたことなど記憶にもない素振りだった。 沙耶は正樹がどの教室に入って行くのか見ていた。 驚いたことに同じクラスだったのだ。 確かに西村正樹の名前はなかった。 でも沙耶は知らないだけだった。 正樹は母方の家に引き取られて長尾正樹と名乗っていたのだった。  結局二人は同じクラスだった。 市立松宮中学。 市内にある三つの中学校の中の一つだ。 他には西中学校と東中学校があり、松宮中学校は真ん中にあった。 (まさかこんなことになるなんて……) 沙耶は落ち込んだ。 でももう保育園時代の泣き虫サーちゃんではない。 沙耶は両拳に力を入れて握り締めた。 (もうあの頃の私ではない。私は負けない) 沙耶は正樹の背中をもう一度睨み付けた。  その頃正樹はもがいていた。 将来の夢は勿論プロレスラーだ。 父親は保育園を卒業後に亡くなった。 だから尚更、思い出が強いのだ。 父親との遊びが夢へと繋がり、プロレスラーへの道と向かわせたのだ。 パフォーマンスで、痛い演技をしているだけ。 そう教えられた。 でも四字固めを掛けられた時、物凄く痛かった。 だから余計に燃えてしまったのだ。 もし叶えられたなら嬉しいと思っていたのだ。 でもどうやったらなれるのかが判らない。 どのように体を鍛えたら良いのかさえも判らないのだ。 部活は運動系なら何でも良かった。 母の実家で肩身の狭い思いをしてきた。 だから、スポーツ少年団にも入れなかった。 正樹はただ悶々と生きてきたのだった。  沙耶は正樹とは一切口をきかなかった。 アンタなんか嫌い。 と言う意思表示だった。 沙耶はそれだけで一年間を遣り過ごしたのだった。 でも苦しい。 本当は話がしたい。 正樹は父親譲りの美少年だったのだ。 アイドル並みのルックスは校内随一。 もし人気投票でも実施されたら、必ず一位になるだろう。 だから、本当は悔しいかった。 正樹に掛けられたプロレス技で近付きがたい存在にされてしまったことが。 コブラツイストや足四の字固め。 思い出す度、胸が張り裂けそうになる。 沙耶は気が狂いそうになりながら、心の中で戦っていたのだった。 その思いが何なのか知りもしないで。  そして沙耶は三年生になった。 又…… 正樹と同じクラスだった。 何時ものように無視から始まるはずだった……。 「私の出身地はコインロッカー」 その言葉に驚いて、振り返った。 其処に居たのは結城智恵だった。 智恵とは二年生の時に一緒のクラスだった。 施設の子供だとは知っていた。 (コインロッカーって何? まさか、出身地が其処なの?) 正樹もその言葉に驚いているようだった。 そりゃ誰だって驚くはずだ。 出身地がコインロッカーだなんて。 でも、本当かな? 沙耶そう思っていた。  (もしかしたら智恵さん、アイツのことが好きなのかも知れないな) 呑気にそんなこと考えていた。 (でもアイツ人気者だから大変だよ。それにプロレス好きで……) 沙耶はその時気付いた。 正樹のことを本当は意識している自分に。 一切口をきかなかったのは、トラウマのせいではなかったのだ。 アンタなんか嫌い。 は本当は大好きだと言う現れだったのだと。  沙耶はもがいた。 トラウマと恋心。 二つの間で揺れ動いた。 そして、やはり正樹が好きなのだと結論付けた。 それでも近寄り難い。 沙耶は正樹を恨んだ。 保育園時代の体験さえなければと思い、其処に入所させた両親さえも逆恨みしたのだった。 『私の出身地はコインロッカー』 結城智恵の言葉を思い出す度に震える。 それにより、正樹は確実に智恵を意識するようになると沙耶は考えていたのだった。 沙耶は気付いていた。 正樹が智恵に恋をしていることを……  高校は迷わず正樹と同じ公立を目指した。 二人の仲は縮まり難い。 それでも徐々に近付き、深まることに賭けたのだ。 幸い軟式テニス部は存在していた。 だから其処で打ち込むことにしたのだった。 珠希の高校は同市内にある私立だった。 其処は軟式テニスに力を入れていた。 だから珠希を特待生として受け入れたのだった。 沙耶は考えた。 珠希の高校へ進学して同じ部活に入れたとしても、自分には見込みがないと。 だから大好きな正樹のいる高校を選んだのだ。 軟弱なクラブでも良かった。 むしろその方が遣り甲斐ある。 沙耶は本気で部活の再生を目指したのだった。 だからこそ一年生でレギュラーとなり、高校総体の切符を手にしたのだった。  沙耶は正樹を高校総体の軟式テニス地区予選の応援に誘った。 駄目で元々。 そんな感覚だった。 沙耶は少しずつではあるが、正樹との距離を詰めることに成功したのだ。 タメ口とまではいかなくても、沙耶には充分過ぎる進展だったのだ。 その誘いに正樹は乗った。 気分転換に丁度良いと思っていたのだ。 正樹はまだプロレスラーの道を模索していた。 でもどうにもならない。 スポーツジムに行けば身体は鍛えられる。 解っていた。 でも、正樹にはその費用が無いのだ。 胸の筋肉や腹筋をどうしたら鍛えられるか判らなかったのだ。  顔を出すだけのつもりだった。 でもそうはいかなくなった。 丁度その時沙耶の試合が終り、手を振られたのだ。 仕方なく、引き上げて来る沙耶を待つことにしたのだ。 気まずさから正樹はグランドに目を移した。 その時、隣のコートでプレーをしていたのが珠希だった。 その技術力に圧倒され、思わず拍手喝采を送った正樹。 非の打ち所もない前衛。 珠希は高校生でありながらプロ級だった。 自校の応援そっちのけで珠希に見入った正樹に沙耶は衝撃を受けた。 正樹の目は、保育園時代に沙耶にプロレスの技を掛けて得意になっていた時と同じだったのだ。  そんな正樹に一目惚れした珠希。 珠希は正樹の中に、懐かしい人の面影を見ていた。 それは沙耶を保育園にお迎えに行った日。 四の字固めを教えて貰った正樹の父親だった。 カァーッと胸の奥が熱くなる。 珠希は本気で、正樹の父親に恋をしていたのだ。 だから瓜二つの正樹に目を奪われたのだ。 それは珠希の長年の夢が叶った瞬間だった。 正樹の父親が、亡くなったことは風の噂で聞いていた。 だからもう会えないと思い悲しんでたのだ。 それでも会いたかった。 会いたくて会いたくて仕方なかった。 正樹の父親は珠希の初恋の人だったのだ。  目の前にいる正樹が、初恋の人でないことは解っていた。 それでも珠希は恋に落ちた。 悲しんできた分だけ思いが募る。 珠希はあの恋が、本当はこの瞬間に向けられたのだと思い込んだ。 だから舞い上がって、正樹の全てを受け入れたくなったのだ。 そして出逢えるきっかけになった、プロレスラーになる夢を二人で追い掛けようとしたのだった。  何もかもかなぐり捨てて、正樹のためだけに奔走する。 幸い、軟式テニス部はインターハイ後に引退することは決まっていた。 後輩に部活を任せて、卒業の準備をするためだった。 野球やサッカーやラグビーなど冬まで続く部活もあるが、軟式テニス部は通常通りだったのだ。 それは、就活や受験勉強などに充てるためだった。 珠希にも、未来を決めなくてはいけない進路選択の日々が其処まで来ていたのだった。  正樹は悩みを珠希に受け開けた。 将来の夢は勿論プロレスラーだ。だけど身体を鍛える方法が解らない。そう告白したのだ。 正樹の練習をサポートしたいと珠希は考えた。 何とか筋トレだけはさせたかったのだ。 珠希が思い付いたのは、偶に利用していた壁打ちテニスの出来るスポーツ公園だった。 市内に何ヵ所か設置されている大型公園だ。 コンクリートにテニスコートのラインや野球のストライクゾーン、サッカーゴールなとがペイントされていた。 広い運動スペース。 その近くには、腹筋などを鍛えるられる遊具が備え付けられていた。  正樹は早速練習に取りかかった。 腹筋を鍛えるバーの付いたコンクリートの台。 それから二人の挑戦が始まった。 二人三脚のようにお互いを支え合い、共に成長することを二人は望んだのだった。 筋トレの後はただぶら下がるだけの鉄棒。 背筋が伸びる気がして、正樹はすっかり此処が気に入った。 正樹は自分の背の低さを気にしていた。 だから、暇があると此処に足を向けるようになっていた。  そんな時小耳に挟んだのが、市の体育館の中にある無料のスポーツジムだった。 週三回ある基礎講義。 それに出席した人にカードが発行されて、その後は何時でも使用しることが出来ると言うものだった。 二人は示し合わせて、同じ日にその体育館に向かった。 体育館の中に入ったらまず靴を脱ぎ、運動の出来るキレイな靴に履き替える。 その後休憩スペースの横にある階段を上った。 アリーナを上から見下ろすための場所。 そんな僅かなスペースに所狭しと置かれている筋力アップのための機械。 数は少ない。 でも充実したラインナップだった。 二人は真面目に講義を受け、其処を利用出来るカードを手に入れたのだった。  正樹の夢の叶え方。 その答えは珠希が知っていた。 プロレスで必要な体力と技術を身に付ける方法を。 「柔道が一番よ」 珠希は言った。 「えっ!?」 正樹はそう言ったままで固まった。 盲点だったのだ。 珠希その言葉の真意には、受け身があった。 プロレスラーになるためには怪我をしない工夫。 それには受け身が一番だと悟ったのだ。 自分だって知っていたはずなのに…… 正樹はその時、改めて珠希の凄さを実感したのだった。  市の体育館の無料ジムには、それが出来るマットが設置されていたのだった。 それに、正樹の高校では男子の必修スポーツが偶々柔道だった。 だから正樹は胴着を所持していたのだった。 二人が通い始めた場所にあったのは筋力アップ機械や、ウォーキングマシンだけではなかったのだ。  珠希と一緒にいることだけで正樹は成長する。 正樹は珠希に夢中になった。 初恋の人の結城智恵を忘れた訳ではない。 『私の出身地はコインロッカー』 その言葉で意識した。 恋しいと思った。 だから力を付けたいと願った。 それは本当は、智恵を守るためだったのだ。 それでも正樹は珠希の人柄に惹かれた。 二人でプロレスラーになる夢を追い掛けてみたくなったのだ。 珠希の真剣な思いは確かに正樹に届いたのだった。  珠希が正樹に柔道を勧めた訳は受け身だけではなかった。 人伝いに聞いた柔道整復士の資格があったのだ。 正樹にこの資格を取らせたかっのだ。 それは接骨医にこの資格の方が多いと聞いたからだった。 勿論、柔道をやってさえいれば取れる訳ではない。 でもきっと、マッサージが出来ればプロレスラーへの足掛かりになると信じたからだった。 初めは練習生だろう。 でもそれすら難しいのかもしれない。 でもその資格があれば可能かもしれないと思っていたのだった。 長い道のりになると判っていた。 だけど珠希は正樹の力になりたかったのだ。  でも、其処も学費は高かった。 基礎柔道整復学。 臨床傷柔道復学。 柔道整復学実技。 臨床実習。 臨床実技。 専門。 解剖学。 生理学。 運動学。 衛生学。 公衆衛生学。 臨床医学。 外科学。 整形外科医学。 臨床医学。 スポーツ科学。 生命科学。 それらの全てを勉強しなくてはならない。 珠希は悩んだ。 その資金を如何に貯めようかと。 そして珠希は決断する。 自分がその資格を取り、正樹を癒そうと…… 珠希は正樹を応援したくて、中学の体育教師の道を模索していた。 偶々その学校では、スポーツマッサージの学科も用意されていたのだ。 珠希の覚えた技術を正樹に伝授すれば、プロレスラーの養成所で重宝がられるかも知れないと思ったのだ。 プロになるのが一番だと解っている。 でも、二人にはお金が無かったのだ。  珠希は真剣だった。 誰にも言わずにまず新聞配達のアルバイトをする。 珠希は開校間もない短期大学の入学金と、授業料を得ようと必死だったのだ。 だから珠希は新聞配達をしながら、一生懸命にその資金を貯めたのだ。 親には、身体を鍛えるながら短大に行くための資金作りためだと言っておいた。 親に迷惑掛けたくない。 その気持ちもは純粋であっただけに、誰もが身体の作りも兼ねているのだと疑わなかったのだ。  筋トレの後はマットを使った受け身の練習。 柔道で怪我をしないためにもこの受け身は大切なのだ。 最初は寝姿勢の後方受け身。 身体全体の力を抜き、小指の部分から先にマットに触れるように打つ。 次は身体の大切な部分を守る受け身。 両膝をつき爪先立ちにする。 両肘を曲げながら顔面にもっていき、親指と人差し指を付けるとハートになった。 「これ、俺の気持ち」 正樹は珠希に向かってそれを見せた。 珠希は顔を赤らめた。  前に勢いよく倒れながら、肘より前部分でマットを強くたたく。 手を最初に付くと手首を痛める可能性がある。 だから肘から着くのだ。 その時、腹に力を入れて顔、胸、腹をキープする。 中腰姿勢の前方受け身では、上体を前方に大きく伸ばし膝、腹、腕、顔を浮かして肘から前全部で強くマットを打ち受け身をとる。 後方では首を前に折りながら背を丸くして後方に返る。 珠希と共にいるだけで正樹は成長する。 次第に筋肉質な体格に変化していったのだ。  沙耶はそれに気付き秘かに正樹の後を追ってみた。 入って行ったのは体育館だった。 沙耶は首を傾げた。 何故此処なのか、見当も付かなかったのだ。 沙耶は見学だと言って、スリッパを借りた。 二階に上がれるはずがない。 でもどうしても確かめたかったのにだ。  沙耶は階段で聞き耳を立てた。 プロレスラーになる夢を珠希に語る正樹はイキイキしていた。 沙耶の心が傷む。 それはトラウマだった。 沙耶は、幾ら正樹を好きでも夢を叶えてあげられないと気付く。 又保育園時代の体験が脳裏を掠める。 正樹の父親がプロレスの技を教えなければこんな苦しい思いをすることはなかった。 今度はそれを憎んだ。 沙耶は恋しい思いを抱えたままで、珠希と正樹を常に意識して暮らすしかなかったのだった。  市立松宮保育園。 沙耶は何時かその門の前にいた。 仲睦まじそうな正樹と珠希。 二人の姿を思い出しては頭を振る。 沙耶は何時しか泣いていた。 (そんなにアイツが好きなの? もう遅すぎるよ!) 頭の中では理解している。 それでも邪魔したくて立ち上がる。 沙耶は嫉妬から悪巧みを思い付いていた。 それは珠希と正樹の恋を両親に言い付けることだった。 それで二人が別れることは無いと判っていた。 それでも恋心を押さえられなかったのだ。 その結果、更に正樹が遠退いたとしても遣らざるを得なかたのだ。 それがあの、同級生をお義兄さんと呼べないと言った真相だったのだ。  沙耶。 ごめんね。 何も知らなかった。 ダーリンが初恋の人だなんて気付かずに…… 私は沙耶から奪ってしまった。 一途にダーリンだけを愛した? 聞こえはいいよね。 でも…… 沙耶は泣いてたのね。 でも…… だからって、美紀からダーリンを奪わないでね。 もう少しで、きっとダーリンは堕ちるはずだから。 美紀と…… 美紀の中に巣作っている私達の魅力でね。 沙耶。 悪く思わないでね。 私達本当にダーリンを、長尾正樹だけを愛しているの。 美紀に安らぎを与えてあげて。 私ったら又聞こえの良いこと言っているわね。 そう…… 私が満足したいだけなのよ。 そんな野望に美紀を巻き込んだだけ…… 私は今でもダーリンが大好きなの。 これが本音かも知れないね。 それは沙耶だけに聞こえた珠希の叫びだった。
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