長尾秀樹のピッチング

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長尾秀樹のピッチング

 遠目で誰も傍に居ない事を確認した美紀は、校門を勢い良く通り過ぎた。 美紀はそのまま、高校の自転車置き場へと向かった。 スタンドを立てて、時計を確認した美紀。  「まだ大丈夫かな?」 独り言を言いながら、フェンスの先を見つめた。 その向こうにグランドがあり、野球部の練習風景が見えるからだった。 スポーツバッグを前籠から出しながらもう一度見た美紀。 そこへ同級生の羽村大(はむらひろし)が乗り付けてきた。 「あれっ、何してんの? 朝練は?」 「何言ってん。いつもの時間だよ」 そう言いながら、おもむろにスマホを取り出し、時間を確認する大。 「あーあ、いけないんだー。確かこの前生徒会で、それ持ち込み禁止になったんじゃなかったけ? あっ、そんなことより兄貴達三十分早く行ったけど。確か甲子園……」 「あーっ、そうだった! 甲子園を目指すために三十分早かったんだ。やべー完全に遅刻だよ」 大はカバンを鷲掴みにすると、慌てて校庭に走った。 それを見送る美紀。 「甲子園か。今年が兄貴達にとって、最後の挑戦だからな」 美紀は改めて、野球部のグランドを見た。  フェンスの向こうに秀樹が見える。 秀樹はグランドでウォーミングアップをしていた。 美紀は何かが気になり、手招きで秀樹を呼んだ。 口元に血のような物が付いていた。 良く見るとそれは、朝食時に掛けた物のようだった。 「何だよー」 不機嫌な秀樹。 「顔洗った?」 美紀は自分の口元へ手を持っていった。 「秀ニイの此処、ケチャップ付いてる」 「えっ!?」 秀樹は慌てて、口元に指を持っていった。 でも指先には何も着いてこなかった。 秀樹はユニフォームのポケットから携帯電話を取り出し、ミラー機能で自分の顔を確認した。 「お前がオムレツなんか作るからだぞ全く」 「自業自得よ! ちゃんと起きてさえいればねー。でも、あれっ確か秀ニイ、携帯持ち込み禁止になったはずじゃなかったっけ」 すかさず言う美紀。 秀樹は慌てて携帯電話をポケットに締まった。 経済的にゆとりの無い長尾家。 兄弟は未だに携帯だったのだ。 「いけないんだ。生徒会長に言い付けちゃうぞ」 美紀は不敵な笑みを浮かべた。 「えっー。直樹に」 秀樹は頭を抱えた。 直樹は生徒会長で、野球部のキャプテンでもあった。  「あ、そうだ思い出した。あれは、先生方に対するアピール作戦らしいよ」 「アピール?」 「だから本当は携帯は持ち込み禁止じゃなくて、授業中に遣らなきゃいいってことらしい」 「えっ、んな馬鹿な」 「四月生まれのヤツは十八禁も見られるんだ。チラ見したけど、物凄くエロチックだったな」 「呆れた。そんなことしてるんだ。スマホを持ち込み禁止にしたくもなるわね」 「それを今日決めるって言ってた気がする」 「私何も知らなくて……、――って、何で言ってくれなかったの!!」 美紀の剣幕に秀樹はたじたじになって、慌てて其処から逃げ出していた。 美紀が怒るのは当然だ。珠希の形見の携帯を家に置いてきたからだった。  兄弟の通っている高校は、県内では名が通ったスポーツ校だった。 秀樹と直樹は野球部に所属していた。 美紀はソフトテニス部。 国体選手だった母の珠希に憧れて選んだ道だった。  五年前亡くなった珠希は中学で体育教師をしていた。 プロレスラーの正樹のサポートしながら、ソフトテニスの顧問もこなす。スーパーレディだった。 珠希が実の母でないことは知っていた。 だから時々、自分には才能が無いと落ち込む。 でもそこは、珠希の背中を見て育った美紀。 何事にも負けない根性だけは備わっていた。  改めて美紀はフェンスの向こうに目を移した。 其処には秀樹と直樹が見えた。 秀樹はグランドで女房役の直樹相手にウォーミングアップをしていたのだ。  秀樹は豪速球を売り物にしていた。 勿論捕球は直樹の担当だった。 『基本はキャッチボールと遠投』 そう新コーチに言われた。 (その位解ってる) 秀樹は思う。 でも……、早く変化球を覚えたくて仕方ない。 昨日イヤイヤ、言われた通りキャッチボールをした。 『ストレートもまともに投げられない奴に、変化球が投げられる訳がない!』 投げやりな秀樹の態度を見たコーチに、そう指摘されてしまったのだ。 (もうー!! 解ってる! 解ってる! 解ってるよ!!) 秀樹はヤケになっていた。 だからついムキになって、カーブを直樹に向かって投げた。 でもそれはすっぽ抜けた。 慌てて直樹がボールを拾った。 「兄貴どうした?」 直樹が心配して、マウンドに駆け付けた。 「いや、何でもない……」 そう、言おうとした秀樹だった。  「もしかして、カーブだった?」 でも、直樹の指摘に言葉を失った。 「カーブは投げ方を誤ると肘や肩に大きな負担がかかるって言われたろう?」 「うん。俺の場合、手首をひねって親指が上に来るから危険なんだって」 「――ったく、しょうがねぇな。解ってて遣るから始末悪いよ」 直樹の言葉に秀樹はグーの音も出なかった。 「コーチが言っていたよ。外に向かって曲がるボールだから、その方向に手首をひねってしまうって。ストレートと同じでいいのにって」 「えっストレートと……」 「だから、まずはストレートなんだって」 「基本か?」 直樹は頷いた。 「トップの位置で手首を内側にロックして、親指が下に向くようにリリースすれば、負担はかなり軽減されるって」  早速ホームベースに向かってカーブを投げてみる。 でも……、親指を意識し過ぎてベースの手前でバウンドした。 (力不足か……いや違う。基本を忘れていたんだ。そうかだからキャッチボールなのか?) 秀樹はやっと、コーチの言った『基本はキャッチボールと遠投』の意味を理解した。 直樹に向かって、ただ無心に投げていた子供の頃を思い出しながら。 そして自分の心に決着を付け、やっと覚えたカーブを封印することを決めた。 『あのコーチに付いていけば、甲子園だって夢じゃないよ』 昨日直樹が言ったその言葉を信じてみようと思った。 それは秀樹が少しだけ大人になった瞬間だった。  本当は解っていたことだった。 でも忘れていたのだ。 (あー、何遣っていたんだろ……) 秀樹はその時、自分を過大評価していたことにも気付いて苦笑いていた。 もう一度マウンドに立って直樹を見つめた。 ありがとうと言いたくて。 「基本はキャッチボールと遠投か」 秀樹はその意味を模索し初めていた。 そのためにもう一度目を閉じた。 無心になりたくて。 「直樹わりー。もう少し付き合ってくれ」 秀樹はそう言うと、子供の頃二人で遊んでいたキャッチボールを思い出していた。 (最初はグラブなんて無かったな。でもあれはあれで楽しかった) グラブを外し、お手玉のようにボールを上に投げては取る秀樹を直樹は首を傾げながら見ていた。 (もしかしてキャッチボールか?) 直樹はその答えに満足するかのように、身構えた。 何時ボールが飛んで来てもいいようにと思って。  『体に負担がかかり難くするためには、無駄のないフォームで投げること』 以前カーブを教えてくれたコーチが言っていた。 (果たして今、自分に出来ているのか?) 秀樹はもう一度その意味を考えてみようと思った。 (いや、出来てない。俺の場合無駄に力んでる。無駄のないフォーム? これも駄目だ) 直樹にタイムをかけて一旦マウンドを降りた秀樹。 呼吸を整えてから仕切り直しに又入った。  秀樹はもう一度直樹を見つめた。 直樹が構えるキャッチャーミット。 何も考えず投げられたらどんなに楽か……。 秀樹は再び無心になろうと目を瞑り、セットポジションをとった。 (この目を開けた時きっと新しい自分に……、俺はこの手で掴みたい。直樹と一緒に掴みたい) 心穏やかに、見えない先の直樹を意識してみる。 (キャッチボールって相手がいるから成り立つんだよな? 所詮俺の力なんて……、バッテリーによって生かされるんだ。俺はそれを俺だけの力だと勘違いしていたのか?)  やっと気付いた秀樹は胸の高なるのを覚えた。 直樹は双子の兄弟でありながら、心の許せる真の女房役だったのだ。 何時も傍にいたから今まで気付かなかった。 直樹への信頼感。 今はそれがビンビンきている。 魂を球に込めて投げれば必ず受け止めてくれることも承知している。 自分の力を過信しないで素直になろうと思った。 それは秀樹が又一つ大人になった瞬間だった。  『カーブは教えてもいいが……ツーシームを有効に使った方が得策だ』 その時秀樹は、前任コーチの言葉を思い出した。 秀樹はストレートの握りを変えることなく、勝負球になりうるツーシームを新コーチに教えて貰うことにした。 勿論全ての球質の練習はしていた。 でももっと上を目指すために、新コーチに付いていこうと思ったのだった。 でも秀樹は苦笑していた。 無心になりたくて目を瞑ろうとしているのに、余計なことばかり考えてしまう自分の愚かさに気付いて。  今や、打たせて取る球質の代名詞になりつつあるツーシーム。 大リーグの球質表示ではストレートと分けて表示されるようになっている。 その進化系としてワンシームも登場したようだ。 それだけ、広がりをみせている球質だったのだ。 ボールの縫い目のようなラインをシームと呼ぶ。それをUの字に構える。その上の部分のラインに指を当てて握ったり、少しずらして握る。Uのラインが二本に見えることからツーシームと呼ぶようになったのだ。 この少しのズレが横と縦に変化する球質なども生み出す素となる。 秀樹はまだその事実を知らずにいた。縫い目にかけるかかけないか、縫い目から外すか入れるかで落ち方と変化の大きさが変わると言うことも……。 ツーシームの概念。 ツーシームをシュートだと言う人もいる。それも正解なのかも知らない。 人差し指だけを縫い目にかけて中指を添える。 沈ませるようにしたいのなら、親指を左に少しずらす。 右打者にはウエスト辺りで真横に動かすか膝下に沈ませる。 左打者にはインコースのボールゾーンからストライクゾーンに入れる投球術を使い、タイミングが合ってきたら外に沈ませるようにする。 大きく曲げようとしないで、打者の近くで少しでも動けばいい。 そんなツーシームにも落とし穴はある。曲げようとするとフオームが崩れるのだ。 ツーシームは腕を遅らせて下げれば殆んど変化する。でもそれはフオームを崩しやすい。だから過信は禁物なのだ。 また、ツーシームを大きく曲げようとするとフオームの質が落ちる可能性がある。バッターから反応されやすいのでちょっとだけ曲げたいと言う意識を持つことも大事なのだ。  コーチは秀樹の才能を見抜いていた。磨けば光る器在であることも。 でもいかんせんお調子者だ。 誉めれば付け上がると思っていたのだ。  放課後。自転車置き場。 美紀はスポーツバックを前籠に乗せた。 珠希の形見となったラケットをとても大切にしていた美紀。 もし自分が国体の選手になれたらそのラケットで戦おう。 それが一番の供養になると考えたからだった。 大事な試合のみだけど、自分は昼間使わせてもらっている。 だけど夜はそれで楽しんで欲しくて仏壇の前にお供えしていたのだった。 「ママ。力を貸してね。もうじき試合があるの」 他力本願はいけないことだと、自分自身が一番分かっている。 でも美紀は、親子でインターハイに出たいと思っていた。 秀樹直樹の甲子園同様、美紀も国体の選手を目指して頑張っていたのだった。  ソフトテニスは軟式テニスと言っていた頃とはルールが違っていた。 前衛と後衛に分かれる。 それは同じだった。 大きく違うのはサーブだった。 一人だけから二人の共同作業になったのだった。 前衛は守りのみだった。 スマッシュやボレーの腕を磨くだけで良かった。 珠希はその前衛だった。 中学高校で培った力を全面的に否定されたようで最初は慣れなかった。 サーブは後衛に任せっきりだった。 珠希は全くサーブの練習などして来なかったのだ。 だから人一倍悩んだのだった。 でもどうせ遣るなら、誰にも打てない物を。 そう思って、初めたイングリッシュグリップ。 自然にサーブも決められるようになるために珠希は死に物狂いの努力を自分に課せたのだった。  ソフトテニスのグリップは大きく三つに分けられる。 ウエスタングリップ。 アメリカの西部地方で考案された事から名付けられたグリップて、ソフトテニスでは最もポピュラーな握り方だった。 それ故、このグリップの部員が一番多かった。 イースタングリップ。 アメリカ東部地方で考案された握り方で、硬式テニス用として広まった。 フォアハンドとバックハンドでは別のラケット面を使用する。 流石にこのグリップの部員は居ないと思われた。 でもかって硬式テニスをかじった部員には馴染みのグリップらしく、ラリー中に思わずその握りをしてしまう選手もいた。 イングリッシュグリップ。 イギリスで考案された握り方で、硬式テニスで多く使われている。 ソフトテニスでのグランドストロークとしては殆ど用いられない。 でもツイストサービスやカットサービスでは武器になる握り方だった。 だから珠希はこれを選択したのだった。  その頃、それは新ルール・国際ルールとも呼ばれていた。 軟式テニスは、ソフトテニスとして大きく羽ばたいこうとしていたのだ。 珠希が戸惑ったのはサービスだけでは無かった。 一番はジャッチだった。 練習中に審判を置かないでプレーするとどうしても、自らアウトコールをしてしまう。 でも試合中につい出てしまうことも度々あった。 『アウト』などと思わず言ってしまうのだ。 でもルール改正数年後に、その行為が反則に加えてられたからだった。 それは数人でプレーす団体にとっては致命的だった。 そのジャッチ行為を無くすことが第一と考えた珠希は、どんな時でも審判席に座らせることにしたのだった。  それはやがて一石二鳥の効果を及ぼすことになる。 練習中に全ての部員達が審判力を付けたからだった。 珠希はやはりスーパーレディだった。 だから美紀は愛して止まないのだ。 その珠希の経験は、美紀の部活指導にも生かされていた。 美紀は積極的に部員達に自分の身に付けた物を残そうとしていたのだった。 それはやがて、美紀の夢にもつながることだった。 美紀の夢…… それは珠希の後を追うことだった。 高校総体に出場して優秀な成績を収めた後に、国民体育大会に県民代表として出場すること。 でも今のままではいけないと思っていた。 美紀は更にソフトテニスを極めたいと思っていたのだった。  詩織の言ったように美紀は超高校生級のソフトテニスのプレーヤーだったのだ。 でも、決してそれを鼻にかけたりしなかったのだ。  ソフトテニスのコートは、大きく三つに分けられる。 ストロークが打ちやすく、ラリーが続けやすい土のクレーコート。 多少の雨でもプレーが可能な砂入り人工芝の通称オムニコート。 摩擦が大きく、カットサービスが有効なハードコート。 又それに合わせたシューズ選びも大切だった。 でも正樹に負担を掛けたくなかった美紀は、常にオールコート用を愛用していた。 珠希の影響もあって、正樹は多少なりとはソフトテニスを理解していた。 コートとシューズの関係も理解していた。 だから本当は全てのコートに適したシューズを美紀にプレゼントしたかったのだ。 でも家計の負担になると言って、美紀が喜ばないことは解っていた。 美紀は高校生でありながら主婦代わりで、長尾家の台所を預かる大蔵大臣でもあったのだ。  フェンスの向こうでは大が球拾いをしている。 「それって、三年生がすることかい?」 大は突然聞こえてきた声に驚いて、持っていた球を落として呆然と美紀を見つめた。 「何遣ってるの。ほら早くしないと」 美紀は笑っていた。 大はハッとして周りを見回した。 大慌ててボールを拾う姿は美紀には滑稽に写った。 「これでレギュラーだって言うんだから呆れるね」 「イヤなトコ見るなよ。これはなー、秀と直のサポートだよ」 大はそう言って、グランドに目をやった。 秀樹と直樹のバッテリーが、新入生に豪速球を披露していた。 「エースだからな秀は」 自慢げな大。 「内証だけど、『アイツは大物になる』ってコーチが言ってたよ」 玉を抱えグランドに戻って行く途中で言った。  秀樹はようやく、判りかけていた。 コーチの言った。 キャッチボールの意味が。 それは、チームだった。 幾ら凄いピッチャーが居たとしても、それを受けてくれるキャッチーが居ないと、ナイン全てが居ないと成り立たないと言うことが。 それに気付いたプレゼントとして、入部希望者の前で豪速球を披露する場を与えられたのだった。 『アイツは大物になる』 コーチの言葉はあながち間違いでもないようだ。  クセのあるカーブは封印しないとピッチャー生命に係わる。 だから敢えて『ストレートもまともに投げられない奴に、変化球が投げられる訳がない!』と言ったのだ。 それでもチェンジアップだけは投げさせることにしていたのだ。 俗にOKボールと言われる球種だ。 親指と人差し指を付けて投げることからサークルチェンジと言われているスローボールだ。 チェンジアップの握り方はこれだけではない。 ピッチャーの工夫で何通りも発生している注目球なのだ。 打者の手元で減速して落ちるボールのチェンジアップが最も効果的なのは速球を武器にしている投手だ。 二つを組み合わせることで威力は倍増するからだ。 この時、ストレートと同じ投げ方にすることが重要課題だった。  野球部の要として育って行く秀樹と直樹。 美紀の自慢でもあった。 もっと見ていたかった。 美紀は後ろ髪を引かれながら、自転車に乗った。 でも美紀はその時気付いていなかった。 大が美紀に見とれていたことを…… どうやら大は美紀に恋をしてしまったようだ。 秀樹は何も知らずに美紀の後ろ姿を見送っていた。
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