長尾美紀の秘密

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長尾美紀の秘密

 ――カチッ。 玄関の扉を開ける。 美紀を朝いけた小手毬が迎える。 「ただいまー!」 正樹に帰宅の挨拶をするためにリビングに声を掛ける。 でも返事はない。 (あれっ、今日確か仕事はなかったはずなのに) 美紀は小手毬の花びらを指でつついていた。 ハラハラと小さな花びらが舞う。 美紀は慌てて、それを手でおさえた。 鞄を廊下に置いて、サンダルに履き替えタタキからエントランスを履く。 そして初めて家の中に上がった。  仏間に入った美紀は先ず、形見のラケットを珠希に返した。 (ママ、何時もありがとう) この家の子供にしてくれた珠希。 だから美紀は愛して止まないのだ。 (ママ聞いて、今日学校でね……) 美紀は何時も珠希と対話する。 それは決まってクラブ活動のことだった。  その後で備えられていた花瓶を手に取って、玄関脇にある花壇に向かった。 美紀は此処からチューリップを数本選んで花瓶にさした。 この花壇はホワイトデーに、バレンタインデーのお返しとして、正樹が中心となって作ったものだった。 今まであった小さな花壇。 美紀が矢車草の種を蒔いた花壇の外側に。 今は美紀が中心となり育てている花壇。 どうしても、珠希の好きな花の種を蒔いてしまう美紀だった。  美紀は珠希の仏壇に花瓶を置いて前に座った。 「ママ。お誕生日おめでとう。チューリップやっと咲いたよ」 珠希の大好きだったチューリップを、美紀は見様見真似で育てていた。 去年うっかりしていて、球根を植え付けるのが遅れたのだ。 それは…… ソフトテニス部のキャプテンに選ばれたからだった。 遣らなければいけない事が満載で、帰宅時間も遅れがちだった。 責任感の強い美紀は、部活のために頑張っていたのだった。 でも、それを口実にしたくはなかった。 だから、物凄く気になっていたのだった。 「でも、間に合って良かった」 美紀は涙ぐんでいた。 それほどチューリップの咲くのを待ち望んでいたのだった。  五年前の春。珠希は亡くなった。 今日はその珠希の誕生日だったのだ。 だから、珠希の大好きなチューリップが咲いてくれたことが嬉しくてたまらない美紀だったのだ。  国体の選手だった珠希は健康そのものだった。 突然の事故が珠希の命を奪った。 中学で本格的にソフトテニスを始める美紀のために、正樹とラケットを探しに出た珠希。 練習用のラケットは持っていた。 でもそれは公式戦では使えない。 試合で使うマークが無いからだった。 公式戦ではプレイ前にラケットトスをする。 まず審判にそのマークを示してからヘッド部分を下に付け回して先行後行を決めるのだ。 そのためにマーク付きラケットが必要だったのだ。 そのラケットを購入するために、珠希と正樹は出掛けたのだった。 正樹が今でも悔やむこととなる、珠希の運転で……  その時だった。 センターラインを大きくはみ出した大型トラックと衝突してしまったのだ。 運転手が、落とした携帯電話を拾おうとしたために起きた事故。 一瞬目を離した時の脇見運転が原因だった。 正面衝突。 即死だった。 助手席にいた正樹も、全身打撲で生死の堺をさまよった。 幾度となく、死の淵に立つ正樹。 その度、呼び戻そうと必死な兄弟。 正樹はそんな兄弟の懸命な看病によって、一命を取り留めることが出来たのだった。 でもそれだけではないことは正樹本人が一番理解していた。  それは子供達の、二人の母の存在だった。 死の世界へ向かおうとする正樹を、必死に止めて断念させようとしたのだった。 子供達だけにしたくない母の愛だった。 一緒に逝くことを拒んだ妻・珠希。 此方に来ることをはねのけた智恵。 二人の母と子供達の思いが正樹を蘇らせたのだった。 正樹は当時、平成の小影虎と言われた人気のプロレスラーだった。 この事故のために引退せざるを得なかったのだ。  でも美紀はそのいきさつを知らない。 余りのショックに倒れてしまったのだった。 意識朦朧とする中で、美紀はある光景を目撃する。 正樹が珠希の後を追っていた。 その時、美紀にはその先に何があるのかが解った。 それは正樹の死を意味していた。 美紀はもがいた。 もがき苦しんだ。 目の前の正樹を救うために必死に呼びかけた。 でもそれは声にはならなかった。  それでも美紀正樹の前に立ちふさがった。 美紀はそれが自分だと思っていた。 でも本当は違っていた。 それは、美紀の産みの親である結城智恵だった。 結城智恵が、正樹を救おうとして、美紀の体を借りたのだ。  そのお陰とでも言おうか? やっと意識を取り戻した正樹に珠希の死が告げられる。 瞬間に又意識が遠退く。 余りにもショックだったから。 そして遂に正樹の体と意識が帰って来る。 改めて珠希の死を知る。 正樹はラケットを一緒に入れて送り出したやりたいと付き添っていた秀樹に言い出した。 「ママが天国に行っても、大好きなテニス出来るように入れてあげて」 必死に頼む正樹。 でも秀樹は首を振った。 美紀のためを思ったからだった。 美紀にラケットをプレゼントするため夫婦で出掛けたことを美紀は知らなかったのだった。 もし美紀が知ったら? 美紀はきっと自分を責め続ける。 秀樹はそう思って、母の形見のラケットを残してくれるように進言したのだった。 自分が母と同じソフトテニスの選手になりたい、と思わなかったら母が死ぬことはなかった。 その事実は正樹と秀樹の一生の秘密になった。  美紀はずっと、珠希の形見となったラケットを抱きしめ離そうとしなかった。 心が砕けてしまいそうだった。 ただ傍で見守ることしか出来ない自分が歯痒くて。 秀樹はそんな美紀からラケットを取り上げることなど出来る訳がないと思ったのだった。 そのラケットは珠希の勤務先の中学校の同僚が届けてくれた一本だった。 珠希は前衛だった。 だからそれに相応しいシャフトが二本タイプのを愛用していた。 それは美紀も良く目にしていた物だった。 だから思わず抱き締めてしまったのだ。 でも本当は其処にはもう一本あったのだ。 それは後衛を指導する時に使っていたシャフトが一本の物だった。 美紀はまだそのことを知らずにいた。  悲しみ暮れる美紀。 何時までもそうして居られないことは承知していた。 それでも…… 体が動いてくれなかったのだ。 美紀はそのまま、暫くは何も手に着かなかった。 遣る気はあった。 ママの代わりにならなければいけないとも思った。 でも出来なかった。 てきぱきと家事をこなすママの代わりなんて、自分には務まるはずがないと思っていたのだ。  部活動を終えて秀樹が帰って来た時、美紀は唐揚げを作ったいた。 「おっ、うまそ」 つまみ食いをする秀樹。 「秀ニイ、先に手を洗ってよ。全く子供なんだから」 美紀のお目玉を食らって、シュンとする秀樹。 コソコソ逃げ出す。 そこへ直樹が帰って来る。 「おっ唐揚げ、久しぶり」 直樹の出した手を、取り上げる美紀。 「食べないでよ。ママが悲しむ」 「ママが…… あ、唐揚げか? そうか、今日はママの誕生日か」 直樹はマジマジと美紀を見つめた。 「そうかだからそのヘアースタイルなのか?」 美紀は何時もはツインテールで、珠希の記念日だけ真似をすることにしていたのだった。 長髪は料理の邪魔になる。 そこで、髪を後ろで一つにまとめるのだ。 それは生前の珠希が普段やっていたヘアースタイルだったのだ。 だから直樹は見ただけで気付いたのだった。  小学六年生のバレンタインデー。 美紀は珠希ににトリュフチョコと唐揚げの作り方教えてもらった。 製菓用チョコレートを刻んで、湯煎で熱い生クリームに溶かす。 これをスプーンで掬いココアの中に並べる。 これを一口大に手のひらで丸めココアパウダーでコーティングする。 ビニール袋に鶏肉を入れ、めんつゆを少量絡め空揚げ粉を振り入れ良く混ぜてから油で揚げる。 トリュフも空揚げも、男性陣に大好評だった。 そのお返しの花壇に蒔いた種がやっと発芽した頃、珠希が返らぬ人となってしまったのだった。  三つ子の兄弟の世話は、珠希の妹・叔母の沙耶が見てくれた。 その時美紀は沙耶から、本当は珠希が鶏嫌いだったことを教えてもらった。 そう言われてみると、おっかなびっくりだった珠希。 美紀は、自分に教えるために無理をした珠希の負けず嫌いの性格に感服した。 美紀は悲しみを乗り越えるために再び唐揚げを作ったのだった。 母・珠希との大切な思い出の日に限って。  でも美紀は不思議だった。 実は美紀も鶏が苦手になっていたのだった。 そう…… まるで、珠希の鶏嫌いが移ったかのような錯覚に時々陥る。 美紀は自分自身に自信をなくしていた。 物凄くパパが好きになる。 物凄く兄弟が愛しくなる。 美紀はその度に戸惑っていた。 (ママになった気分てこんなものなのかな?) 何気にそう思った。 それが何を意味しているのか? 本当に美紀は何も知らなかったのだ。  ――リーン、リーン。 エプロンに入れていた携帯が鳴る。 美紀は手を拭くためのタオルを取ろうと調理台の下の取っ手に手を延ばした。 流しの調理台の上には、ラップの掛かった野菜サラダと一緒にシェーカーが置いてあった。 この中にドレッシングの材料を入れて振るだけになっていた。 家庭菜園で採れるレタス・トマト・胡瓜。 手作りドレッシング。 どれ一つとってもそこには珠希の影があった。 手を拭きながら携帯電話を開ける。 表示にはパパとあった。  美紀は少し困ったような顔をした。 プロレスの試合のない日の夕食前の正樹の電話。 それは何時も決まっていた。 『遅くなる』 だった。 「困ったパパだね、ママ」 美紀はラップを手に持ち、リビングにあるローテーブルに向かった。 「ママ、パパって何時もこうだった?」 美紀は仏間の方に目をやった。 食事中は何時も仏間の襖は開けられていた。 一緒に居てほしいと願ってのことだった。 陰膳は同じ種類用意した。 美紀は珠希を引きずっていた。 美紀だけではない。 家族全員が、珠希との思い出の中に生きていたのだった。  「あっパパ。え、少し遅くなるの? うん分かった」 (やっぱりだ。何時もそう思う。でも今日は、ママの誕生日だよ) そう言ってやりたかった。 美紀はガッカリしながら、ローテーブルの上の母直伝の料理をラップで覆った。 それらは全部美紀の手作りだった。 (冷めたら美味しくないのに) 美紀は溜め息を吐いた。 美紀も珠希同様、家族の元気のために頑張っていたのだった。  秀樹はご馳走が気になり、さっきから台所をウロウロしていた。 「え、パパ遅くなるの?」 美紀の受け答えを聞いてガッカリしながらラップを開けて見る。 「秀ニイ! 全く油断も隙もない」 秀樹はとうとう、美紀の怒りをかって其処から追い出されてしまったのだった。 秀樹のつまみ食いを見逃す余裕さえもない。 何時もの寛大は母心に似たゆとりさえ無くしていたのだ。 美紀はそれほどガッカリしていた。 美紀はその後へなへなと座り込んでいた。 秀樹と同じようにローテーブルのご馳走を覗く。 (どうしてなんだろう? 何でママから教えられた料理だけなんだろう?) 美紀は自分の行動が不思議でならなかった。  忙しい朝はキッチンカウンターでの食事。 でも夕食はローテーブルでのんびり会話を楽しみながら。 それが浅尾家のライフスタイルだった。 そのローテーブルは昔のちゃぶ台のように折りたたみ式になっていた。 必要な時に出して、トレーニングの時は片付ける。 小さい時は勉強机やお絵かき台にもなった。 珠希は本当にアイデアが豊富な人だった。 それらを継続していること。 家族を一番大切に思っていること。 美紀は自分がどんどん珠希に近づいているように思えてならなかった。  やっぱりご馳走が気になるらしく、階段の下部から台所を見ていた秀樹。 (パパ早く帰って来てよ。美紀が可哀想だよ) 自分のことは棚に上げ、玄関に目をやった。 玄関の外がやけに明るかった。  (何だろう?) 秀樹は少し玄関を開けてみる。 目を凝らして良く見ると、家の前の道には正樹の車が止まっていた。 秀樹は不思議に思い、そっと家を抜け出した。 遅くなると電話をしてきた正樹が家の前にいる。 お腹を空かした秀樹は、正樹に早く家に入って欲しかったのだ。 木の陰から様子を伺った。 もしかしたら車の中で倒れているのかも知れない。 心配かけたくないから車の中で休んでいるのか? 秀樹はあれこれ考えあぐねていた。  車の中には正樹との沙耶がいた。 「そこを何とか。彼女はあなたの大ファンで」 沙耶の声が漏れてくる。 秀樹は悪いと思いながら聞き耳を立てた。 「だから、その話はお断わりして下さいとお願いした筈です。私はまだ再婚する気は」 正樹は困り果てていた。 「姉が亡くなってもう五年になるのよ。いつまでも忘れないでいてくれるのは嬉しいんだけど」  (ん? もしかしたらお見合いか?) 秀樹は聞き耳を立てながら勘ぐった。 「あいつには苦労ばかりかけて」 正樹は俯いた。 「そうよね、お姉さんったらお義兄さんのことばかり考えていたもんね。鬼門の玄関だから購入を諦めほしかったのに……」 沙耶は泣いていた。 「あの家が姉の命を奪ったと私は思っているのよ」 「だから対処法の白い花と盛り塩を珠希は欠せなかったのに……」 正樹のその言葉を聞いて秀樹は玄関にある白い花を思い出していた。 (あ、だからか? だから美紀は何時も早起きをして白い花を飾っていたのか?) 秀樹はその時、美紀に背負わされた十字架の重さを知った。  何も知らず、得意になっていた。 ママのラケットを遺せたことを自慢に思っていた。  「でもどうして姉が運転していたの?」 その言葉に正樹はドキンとした。 そう、あの頃は殆ど正樹が運転していたのだった。 言えなかった。 言えるはずがなかった。 珠希はソフトテニスのラケットを自分の好意としている店で購入するために自分で運転していたのだった。 美紀の心を守るために秀樹とついた嘘。 沙耶を前にして、言えるはずがなかったのだ。 それは聞き耳を立てている秀樹も同じだった。 美紀にはもうこれ以上の苦労はさせなくないと思い初めていたのだった。 (でも……一体、どうしたらいい? うーん。美紀の料理は美味しいからそのまま作ってもらって……あれっ、結局何も変わらないか?) 秀樹は優柔不断な自分に気付き頭を掻いた。  「何があったのか知らないけど。美紀ちゃんが関係しているんじゃない?」 ズバリと沙耶は言う。 正樹は慌てて首を振った。 「そう言えば美紀ちゃんのお母さんの結城智恵さんって、確かお義兄さんの初恋の人だったでしょう?」 信じられない沙耶の言葉に秀樹は思わず身を乗り出していた。 「分かった。美紀ちゃんね。あの子と結婚する気ね。そう言えばいつもパパのお嫁さんになるって言っていたし」 秀樹が聞いているとも知らず、沙耶は美紀の真実を語っている。 (そうだよ。確かに小さい時から美紀は、『パパのお嫁さんになる』って言っていたんだ……)  「やめて下さい。そんな事考えたこともない」 正樹は頭を振った。 「いいえ、きっとそう。いくら血が繋がってないと言ってもねー。実は私本当は、美紀ちゃんはあなたの本当の子供じゃないかと疑ってるのよ!」 沙耶は興奮していた。 「違います!」 思わず声を荒げる正樹。 (ここしかない!) 秀樹は何も聞いてない振りをして、車をノックした。 「お、秀樹か」 正樹は車のドアを開けた。 秀樹は助け舟になれたようだった。 「すいません。実は今日は誕生日なんです」 正樹は沙耶に会釈して車を降りた。 「えっ!誕生日って、もしかしたらママの?」 「ん、お前知らなかったのか?」 正樹は笑った。 沙耶も気付いていなかったようで、車から降り早足で帰って行った。  「今日がママの誕生日だったなんて……。あ、そうかだから唐揚げなのか? 俺何も気付かなかった。美紀が唐揚げを作る時は、大事な行事があるんだよね。知っていながら……」 秀樹はすすり泣いていた。 「そんなに攻めるなよ。パパだって沙耶さんとの話し合い。ってことでも誉められたらもんじゃないよ。きっと美紀が頭から角を出してる」 正樹は頭の上に指を立ててお道化た。 「夕飯は唐揚げか。何か美紀らしいな〜」 正樹は珠希に手解きを受けている美紀の姿を思い出していた。 「さっき、つまみ食いしたら起こられた」 シュンとして秀樹が言う。 「当たり前だ。この食いしん坊」 正樹の軽く頭を小突く。 「今日がママの誕生日だという事忘れていた。悪い子だね」 秀樹は正樹の胸に頭を付けて泣いていた。  食後秀樹は部屋に戻り、ベットの上に寝そべっていた。 幾度となく寝返りを打つ。 そして、頭を抱えた。 「兄貴何やってん?」 机に向かっていた直樹が見かねて声を掛けた。 でも、秀樹は首を振った。 (知らなければそれで済むって問題でもないのに) でも直樹には言えない。 秀樹は体を半分起こしてうずくまった。 美紀が本当の兄弟じゃないと知って、秀樹はもがいていた。 どうしようもないほど、心が乱れていた。 (何なんだよ! 美紀は妹なんだ。血の繋がりは無くたって、妹なんだよ!) 秀樹の頬を涙が零れる。 秀樹は直樹に見つからないように、そっとそれを拭いた。  しょうがないから、どっぷりと風呂でも浸かりながら考えようと思い秀樹は風呂場に向かった。 脱衣場は暗かった。 ボーっとしていた秀樹は、電気もつけず服を脱ぎ初めていた。 ――ガタン その時、いきなり風呂のドアが開いた。 「キャー!」 鉢合わせをする二人。 美紀は慌ててバスタブの中に逃げ込んだ。 その時秀樹は思わず浴室の照明を点けていた。 「何考えてるこのドスケベ!」 「そりゃこっちのセリフだ! 電気ぐらい点けて入れ、お前の裸なんか見たくもない!」 「だったらそこどけよ」 美紀に言われて秀樹はハッとした。 裸でボーっと立っている自分がいた。  「何だ? どうした?」 騒ぎを嗅ぎつけ正樹と直樹が駆けつけてきた。 『覗きだよ』 ドアの向こうでぶっきらぼうに美紀が言う。 「こいつが暗くして入ってたんだ。俺は悪くない。」 慌てて頭を振った秀樹は興奮していた。 正樹はコップに水を注ぎ秀樹に渡した。 「いいから、これでも飲んで少し落ち着け」 正樹は秀樹を説得しようとしていた。 「ったく人騒がせな……」 直樹は秀樹を気遣いつつ、それでも笑いながら二階へと戻って行った。 その場に残された正樹と秀樹。 二人は冷静さを装いながらも本当は焦っていた。 お互いにそれを悟られまいとしていたのだ。  でも、部屋に戻って正樹は顔色を変えた。 (もしかしたら……) 正樹はさっきの光景を思い出した。 (ヤバい! きっと聞かれたんだ!) 正樹は震えていた。 (どうしよう? この際打ち明けて……でも……) 正樹は迷いながら、これからの家族の生く道を模索していた。 正樹はさっき焦った。 本当は、うすうす勘づいていたのだ。 ただ、否定したい気持ちが何処かにあったから、あのような態度になったのだ。 だから秀樹を放ったらかしのままで自分の部屋に上って来てしまったのだった。 正樹は慌てて子供達の部屋へと向かった。  「秀樹、仏間で待っててくれるか?」 そう言いながら秀樹の背中をそっと押した。 その時、秀樹が震えているのを感じた。 (やはり聞いてしまったのか?) 動揺を隠せない。 今朝から、美紀が気になり過ぎて舞い上がっている正樹。 秀樹に悟られたと思って更に困惑していた。 (そうだ。やっぱり話そう) 正樹は、やっと覚悟を決めた。  仏間の襖の前では秀樹がそわそわしていた。 「もしかして、叔母さんとの会話を聞いたのか?」 うなづく秀樹。 「ごめんな。本当の事言えなくて」 「パパのせいじゃないよ。それより気になること聞いていい?」 秀樹は小声で言った。 「ああいいよ。でも此処ではまずいな……」 正樹は仏間のドアを開けて、秀樹を仏壇の前に座らせた。 「そうだ。どうせなら直樹にも聞いてもらった方が……。秀樹ちょっと此処で待っててくれよ」 正樹はそう言うと、珠希の遺影を見つめた。  ドアをそっと開け、美紀が自分の部屋に入るのを確認した正樹は直樹を部屋へ迎えに行った。 沙耶に指摘され、正樹は舞い上がっていた。 秀樹に聴かれ、更に動揺していた。 益々美紀の存在が大きくなるのを感じて怖くなった。 愛してはいけない美紀を愛してしまいそうな正樹。 親としてではない。 それは寂しさを紛らすためのように思えていた。 珠希のいない寂しさを。 今朝見た美紀は珠希そのものだった。 何故育ての親の珠希にあれほど似ていたのだろう? その答えは出ない。 でも、そのことで…… 美紀を益々意識する羽目になる。 正樹はそれが怖かった。 『大きくなったらパパのお嫁さんになる』 美紀は確かにそう言った。 それを口実に…… 美紀を愛してしまいそうな正樹だった。  直樹は机に向かって勉強中だった。 真面目な直樹はその人望がかわれて、クラス全員から生徒会長に推薦された。 (珠希に似たのかな?) 正樹は時々そう思う。 直樹は正樹にとって、格別な存在だったのだ。 「何だよ。ずっと其処で何してるの?」 直樹の一言でやっと我に帰った正樹。 「ちょっと話があるんだ。下に来てくれ」 それだけ言って、又仏間に戻って行った。  正樹は直樹を、仏間の前で待っていた。 そしてやって来た直樹を、仏壇の前にいた秀樹の横へ座らせた。 マッチを擦り、珠希の位牌の前に供える。 「珠希……いいかい。これから話すよ」 その正樹の言葉で、緊張する秀樹。 その姿を見て、直樹も緊張した。 「ごめん。お父さん嘘をついていました。美紀とお前達は本当の兄弟じゃないんだ」 「えっ! ウソ!」 直樹が声を張り上げる。 秀樹はすぐに直樹の口を手で塞いだ。 「知ってたのか兄貴」 うなづく秀樹。 「でも、さっき知ったばかりだ。ショックだったよ」 「そうか。それで様子がおかしかったのか」 直樹は秀樹の顔をマジマジと見つめた。 秀樹はくすぐったそうに視線をそらせた。  「パパ。美紀の本当のママって、パパの初恋の人だったの?」 秀樹の質問に、頷く正樹。 「同級生だった」 「もう一ついい? 叔母さん、美紀は本当はパパの子供じゃないかって」 「違う。絶対にそんなことはない。だって三年ぶりに再会した時、彼女は妊娠していたのだから」 「ママ知っていたの?」 秀樹の質問に正樹は頷いた。  「病院で再会した時、ママには初恋の人だったって紹介した」 「正直だね」 「ママもそう言ってた。父親は出産時には亡くなっていたんだ。同じ施設で育った幼なじみだと聞いている」 「だからパパとママが育てることにしたの?」 「そうだよ。ママは、双子も三つ子も大して変わらないって言って笑ってた」 「ママらしいや」 直樹はそう言いながら、珠希の遺影に目をやった。 「だからママ、いつも笑っていたんだね。あんなに可愛い美紀のママになれたんだから」 言ってしまってから直樹は赤面した。 直樹は二人に気付かれないように、ずっと遺影を見つめた振りをしていた。 直樹は美紀を意識し初めていたのだ。  正樹は思い出していた。 美紀を初めて胸に抱いた日のことを。 母である結城智恵の死も知らず、生きている証を伝えようとして懸命に泣いていた小さな美紀を。 この手に、この腕に、この胸に受け止めた大きな生命の重さを。 あの瞬間に感じた結城智恵への恋心。 初恋故の傷み。 その全てを理解し、美紀を養女として育てることを提案してくれた珠希。 今正樹は改めて、珠希の大きな人柄に感銘を受けた日を。 珠希の誕生日に真実を告げる羽目になったのは、妻の意志ではないだろうか? 正樹はそう思えてならなかった。  直樹は風呂に浸かっていた。 何時ものバスタブのはずなに何かが違う。 さっきまで美紀が入っていた。 そう考えるだけで興奮してくる。 どういう訳か、脳裏に浮かぶのは美紀のことばかりだった。 実は今日、帰り道で直樹は大に告られていたのだ。 美紀に玉拾いを冷やかされた時、急に恋心が目覚めたと大は言っていた。 そんなことがあったからこそ、直樹は自分を見失ってしまったのだ。 「ふうー」 何度目かの溜め息を吐きながら、湯船にゆっくり体を沈める。 (何だろうこの気持ち? まさか!? まさか恋かー!?) 突然脳に閃いた恋と言う感触。 直樹は何度も何度も頷きながら確認していた。  「兄貴、ちょっといい? 大のことなんだけれど」 脱衣場に来た秀樹に直樹が声を掛けた。 「大の奴、美紀に恋したんだって」 直樹はストレートに秀樹にぶつけた。 「大が?」 秀樹は思わず吹き出した。 「そんな柄じゃねえだろアイツ」 秀樹は肩を震わせ笑っていた。 目前に恋のバトルが迫っているとも知らずに。
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