ママの帰国

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ママの帰国

 直美は見習いマネージャーとして順調に育っていた。 詩織は練習試合が始まっていない内にスコアカードの基本と応用を徹底指導しようとしていた。 「送球って解る?」 「ゴロなどを一塁や二塁に投げてアウトにすることかな?」 「そう、それ。たとえば内野ゴロがサードからファーストに渡ったら5ー3って書くの」 詩織はパチンコのチラシの裏に5ー3とメモした。 「あら、又裏白チラシ」 「図書館で貰ってくるのよ。メモ代わりに良いからね」 「あら、以外としっかり者なんだね」 「以外と、はないでしょう」 詩織は笑っていた。  「この一本棒が送球の印ね」 又講義を始めた詩織に対し、直美はそう言いながら買ってきた本を開いた。 「ファーストが自ら一塁を踏んだら3A、ベースカバーに入った投手に送球すると3ー1Aか」 「あら、ちゃんと勉強してるじゃない」 詩織は本にアウターラインを引いてあるのを見逃さなかった。 「でも、詩織が指導してくれた方が判りやすいからね」 直美が舌を出した。  「そっちは追々やることにして……。ねえ直美、パパに入学式のお礼と直美と再会したと話したら気になることを言われたの。直美のママって、芸能人と知り合いだったの?」 「あっ、子役だった相澤隼(あいざわしゅん)さんのこと?」 「そう、その人。何でも自転車に三人乗りをして送り迎えしていたとか?」 「そうよ。詩織は覚えていないの。年長組にいた、大女優の息子だって噂があった人だけど」 「確か冷凍ハンバーグのCMで王子様役だった?」 「そう、その人。ずっとアパートの隣に居たの。私の記憶には無いのだけど、だから一緒に通っていたのかな?」 「羨ましい。そう言えばつい最近、ソフトテニスの王子様って騒がれていなかった?」 「中学の時でしょう? マスコミに追い回されてアパートから出て行ったの」 「迷惑かかるからなか? 何だか可哀想」 「家はあのアパートのすぐ近くに越したでしょう。何だかんだと聞いてくるの。大騒ぎになって……」 「父から聞いた話だけど、代理母だとか何とかで」 「えっ、何それ?」 「週刊誌に出ていたらしいわよ。その大女優が子供を産めない妹のためにその人を産んだのだと」 「私全然知らなかった」 直美は詩織の言葉に相当驚いたようだった。  淳一はアパートを引き払い、マンションの一室に引っ越してきた。 アメリカ旅行の最中に父に会い、鍵を渡された。 それには、詩織のボディーガードの役割も含まれていたのだった。 勿論帰国するまでのことのようだ。 それでも淳一には詩織の送り迎えする義務があったのだ。 結果的に二人は、一つ屋根の下で暮らすことになった。 学校には兄妹であることを打ち明けた。 一緒に暮らすことを同棲などと誤解されないようにしたのだ。 『離れ離れになっていた兄と妹が又一緒に住むことになっただけです。自分は父に、妹は母に引き取られていました。両親が又一緒に住むことになって……』 嘘も方便だ。 淳一は職員の前でそう言った。 勿論両親はに確めた訳ではない。 それでも……それ以外ないと思っていたのだ。  家に帰る途中、車の中に詩織を残したままででコンビニで買い物をする。 本当は栄養価の高い物を作りたいのだけど、炊事は不得意なので弁当と翌日のパンを篭に入れた。 食事が済んだ後は、淳一は部屋から出ても来ないでずっと生徒達に教えるための資料作成をしていた。 気恥ずかしいのだ。 喩え本当の兄妹だったとしても、赤の他人として過ごしてきたからだ。 そんなことより淳一は焦っていた。 入学式の時点で詩織を愛してしまっていたので、気持ちの整理が着かないのだ。 だから尚更面と向かっての対話など出来なかったのだ。 ビビっときた訳ではないが、それに準ずる何かを感じていたのだ。 (彼女の父親の顔を覚えているってことは、きっとあの時一目惚れでもしたのだろう) 詩織に恋をして いることを告白など出来ない。 詩織は妹の前に、淳一の生徒だったのだから…… (学校にはこのまま兄妹だってことにしておこう。それが無難だ) 淳一は必死に恋心を封印しようとしていた。  学校に許可をもらって詩織の送り迎えを開始した淳一。 そんなことをしなくても淳一と詩織は戸籍の上では兄妹だった。 だから本当ならそんな手続きなど要らない。 だけど、生徒と教師なのでケジメを付けたのだ。 冷やかし半分で野次る生徒もいた。 淳一に憧れた生徒は鋭い眼光を詩織にぶつけたりしていた。 淳一が詩織を見初めたように、淳一に恋した生徒も大勢いたのだった。 淳一は大学を卒業したばかりの新米教師だった。 初々しさばかりではなく、女生徒を虜にする何かを持ち合わせていたのだ。  ある日マンションのドアを開けたら、詩織の母親がキッチンに立っていた。 「ママ、何時戻って来たの?」 本当は嬉しいクセに詩織は戸惑っていた。 まだ手術を受けた箇所が治りきっていなかったからだ。 足からは金属の一部が飛び出したままだったのだ。 松葉づえを突いている詩織に驚き、母はすぐに駆け付けて来た。 「詩織、その足どうしたの?」 「あっ、これは……」 母が戻って来ると入学式の日にウキウキしていたのは事実だった。 でも今は会いたくなかった。 母に注意されていた並み列走行をしていた訳ではないのだが、自転車のハンドルが噛み合って事故を引き起こしてしまったからだった。 「申し訳ありません。大切なお嬢様に大怪我を負わせてしまいました」 淳一は頭を垂れた。 「いいえ、私の不注意だったの。先生のせいではないの」 淳一を庇うように詩織は言った。 「先生って?」 「あっ、お嬢様の通っている高校で国語の教師をしております。学校には兄妹だと打ち明けて、送り迎えしております。勿論許可は得ております」 「そうね。貴方達は確かに兄妹だからね」 (確かにって? どういつこと?) 「そうですよね? 親父の奥さんのお子様だから、やっぱり兄妹ですね」 (あっ、そういうことか……) 解っていながら、詩織はパニクっていた。  「ところでこの足は?」 「あっ、私から言います。実は、校門の前にカーブミラーがあって……。ちゃんと見たのよ、でもその時は何も映っていなくてそのまま飛び出したの」 「その時、自分も車を発進させていて、急ブレーキを踏んだのですが……」 「ごめんなさいママ。私慌ててしまって、直美の自転車のバンドルと噛み合ってしまったの」 「それで直美って子の怪我は?」 「大丈夫。私だけ足を折ったの。同じなら良かった。ごめんなさいママ、何時も注意されていたのに……」 「でも、良かったわ。その直美さんが無事で……」 母はホッとしたらしく、ため息をついた。 「本当にごめんなさい。でも、並列走行だけはしていないからね」 「結果的には同じよ。それで手術した訳ね?」 「ママ凄い。良く解ってる」 「その金具見れば解るわよ」 「この方が早く治ると言われまして、日帰り手術でした」 「それでずっとこの子に付いていてくれた訳ね。本当にありがとうございました」 母は深々と頭を下げた。  「ところでママ。テレビ局の仕事終わったの? 確かあの人は今。みたいなタイトルだったわね」 「これから最後の交渉に入るトコよ。今この近くにいるらしいの。ホラ、時計台の向こうに見える駅前のマンションよ」 「えっ、そんな近くに芸能人だった人が住んでいたの?」 「もしかしたら詩織も知っているかも知れないな。二年くらい前にソフトテニスの王子様って騒がれていた相澤隼さんって言う人よ」 「駄目」 思わず詩織は言った。 マスコミから隠れるようにアパートから逃げ出したことを聞いていたからだった。 「彼には大女優の息子ではないのかって噂が常に付きまとっていたの。もしかしたらそこのトコも聞き出せるかも知れないのよ。そうなりゃ、きっとスクープね」 でも、詩織の言葉が聞き取れなかったように母は続けた。 母の仕事はある女優の息子だと噂されている元子役を探すことだったのだ。  相澤隼。 詩織と同じ保育園に通っていた三歳歳上の先輩だった。 詩織の父が保育園で見た限りでは何時も寂しそうにしていたそうだ。 『彼には色々な噂があって、でも『みんなデマだから信じないように』って園長先生が言っていたよ』 この前、電話でそう言われた。 父は何時も子供達を三人自転車に乗せて保育園に通っていた直美のお母さんが、急に態度を変えたことが不思議でならなかったそうだ。 実は、直美のお姉さんがブランコの後ろから近付いて頭にタンコブを作ったことが関係しているらしいのだ。 でも父は違うと思っていたようだ。 父は私が保育園時代の友人と再会したことを報告した時、何かが引っ掛かったそうなのだ。 そして思い出したことを教えてくれたのだった。  「駄目。相澤隼さんのことは調べては駄目。お母さんはきっと知らないと思うけど、私は同じ保育園だったの」 詩織は直美との会話を思い出していた。 きっと又逃げ出すに違いない。 そう感じたのだ。 《怜奈(れいな)》と言うその女性には相澤隼と言う息子がいるらしいのだ。 代理母…… それはあくまでもマスコミによる報道だったが、その裏事情を母はカルフォルニアまで行って調べていたのだ。 あわよくば、その取材で二つの番組を製作する予定だったのだ。 もし代理母の一件が本当のことだったら母は特ダネを物にすることが出来るのだ。 相澤隼はカルフォルニアで代理母としての怜奈が産んだとされていたのだった。  代理母のことは父から聞いていた。 相澤隼が大女優と言われている《怜奈》の息子だと言われている事実も。 それでも詩織は言えなかったのだ。 「カルフォルニアでは代理母業が盛んなのよ」 「代理母業って?」 「特に日本人のお客様向けかな? 沢山お金を払うから」 「何かビジネスって感じね。出産って神秘的だと思っていたから、何だか怖いわ」 「出産ってリスクを伴うものなの。だから罰当たりな行為だと私は思っているのよ」 「だからって……。相澤隼さんはあのソフトテニスの王子様騒動の後姿を隠したそうよ。そんな人を……」 「誰から聞いたの?」 「さっき話した中野直美さん。彼女は相澤隼さんと同じアパートに住んでいたのだって。だからお母さんが直美とお姉さんと一緒に保育園に送り迎えしていたんだってさ」 まさか母に父から聞いたとは言えなかったのだ。 「あっ、だったら一度その人に会わせてくれる? お詫びもしたいし……」 でも話は別方向に向かっていた。 「私が事故に巻き込んだから?」 「そうよ。でもそんなことより食べましょうよ。詩織お腹空いてないの」 ……ぐ、ぐぐー。 タイミング良く、腹の虫が鳴いた。  久々の母の手料理は美味しかった。 詩織は満足したかのようにナフキンで口を拭いた。 「何時もこんな美味しい物を食べているのか。親父が太るはずだ」 淳一も満足そうだった。  母は食事と後片付けを済まして、大急ぎでマンションを後にした。 でも母は出掛ける前に気になることを言った。 「相澤隼さんがアパートから引っ越したのは、叔父さんが宝くじを当てたからよ。逃げ出したのではないのよ」 と――。 (逃げ出した訳ではない? じゃあ直美は何故あんなことを言ったの。一番近くにいたのは、アパートのすぐ側に引っ越した直美の家族なのに……だから見てきたはずなのに) 結局、二人が本当の兄妹ではないかと聞けなかった。 母が居なくなった室内には重苦し雰囲気に包まれていた。  「相澤隼って、ソフトテニスの王子様って言われていたのか?」 「そうなんです。中学時代ですが、騒がれ過ぎて引っ越したって直美が言ってました」 「だから又逃げ出すと思ったのか?」 淳一の言葉に詩織は頷いた。 「優しいな工藤は」 「二人っきりの時は、工藤じゃなくて詩織がいい」 詩織は自分の発言に驚いて、思わず俯いた。
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