甲子園を目指して

1/1
前へ
/19ページ
次へ

甲子園を目指して

 ソフトテニスのインターハイ。 所謂高校総体は毎年六月に行われる。 今年は六月九日の九時より第一戦が始まり、翌日に最終日となる予定だった。 それは、その月の終わりに全国大会が行われるからだった。 優勝した組は通称・ハイスクールジャパンカップに出場できるのだ。 そのスポーツの祭典は、ソフトテニスに限らず多種多様で高校で運動部に所属している者の憧れだったのだ。 珠希は此処に出場していた。 それが結局国民体育大会への足掛かりとなったのだった。 だから美紀も一生懸命だったのだ。 みんな全国大会出場をかけていた。 特に三年生はその大会で引退するのだ。 そして全ての部活の権限を後輩に譲る。 そのための花道だったのだ。 美紀もその日に向けて特訓を重ねていたのだった。  昭和三十八年。 第一回全国高等学校体育大会が開始された。 持ち回りだった開催地がブロックになり、今に至っている。 公正を課すために、連盟に認められた選手以外の転校生の出場は半年間禁止となっている。 どんなに素晴らしい選手を手に入れても、チャンスが与えられないのだ。  「ママ。今度の試合は私のこれからを左右する大事な一戦になると思うの。だから、ラケットを貸してね」 九日の早朝。 美紀は珠希の遺影に手を合わせていた。  ――ガタッ。 何時ものように東側の勝手口を開け、コンクリートの台にあるサンダルに履き替える。 其処から玄関横へと回り、白い花ゾーンから紫陽花を選ぼうと向きあった。 「やはりこの紫陽花にして良かったな」 美紀はそんなことを言いながら、葡萄のように垂れ下がった山紫陽花を一枝切り花瓶に移した。 又勝手口から中へ入った美紀は珠希の遺影の前にそれを飾った。 『ねえパパ。今度のインターハイの応援に来てくれる?』 甘えながら正樹に言った美紀。 正樹には珠希の声に聞こえたかも知れない。 でも、それは美紀の本心だったのだ。  試合がある朝だから、長尾家は賑やかだ。 実はこれは珠希のやっていた恒例の行事だった。 国体選手の代表を選ぶ県大会の朝などは特に忙しい。 そんな時珠希は家族を巻き込んで手伝わせるのだ。 でも殆ど邪魔になる。 それでも珠希は嬉しかったのだ。 家族と一緒にワイワイ騒ぎながら試合に準備をすることが。 珠希は家族からパワーを貰いたかったのだ。 それは勿論、正樹の愛が一番だった。 だから正樹は出来る限り珠希の応援に馳せ参じたのだった。 でもそれは、試合のない日に限られていた。 だから尚更…… 愛する妻に熱いハートを届けたかったのだ。  美紀は試合開始の一時間以上も前に会場入りしていた。 ストレッチングとウォームアップをするためだ。 野球と同じく、それがスムーズに体を動かず原動力になるのだ。 テニスなどのラケット競技も野球と大差なく、太もも、腰、胸、肩などを鍛える。 ただ移動の激しいテニスは、足を鍛えることが重要になってくる。 高速でボールの落下位置移動して、急ブレーキきをかけられた足は時に悲鳴を上げる。 大腿四頭筋やハムストリングスなどに掛かるストレスが主な原因だ。 それを軽減するためにも体の芯を温かめるの行為は欠かせなかったのだ。 試合が終わった後のクールダウンも同様に重要な鍵になる。 ウォームアップとクールダウン。 これらが、事故のないスポーツの基本なのだ。 ウォームアップの時には柔軟体操のように座っては行わない。 土が付く。 ことを嫌うのだ。 どうやら、相撲の敗けを意味する言葉からきた縁起担ぎのようだ。 それだけみんな勝ちたいのだ。 拘りだと解っていても、そうしないと落ち着かないらしい。  試合開始直前。 選手達はネットをはさんで集合し、ジャンケンをする。 負けたプレイヤーはラケットのへッドを地面につけて回すことが義務づけられている。 所謂ラケットトスは、美紀の手にしていた珠希の二本シャフトが使われることになった。 つまりジャンケンに負けたのだ。 でも相手側は言い当てられなかった。 公認マークがついている方が表で、回っているうちに表か裏かを言わなければならないのだ。 だからトスの勝者は美紀達だった。 「サーブ権でお願い致します!」 美紀は力強く言った。  正樹は美紀の応援に観覧席に来ていた。 コート上で試合前の練習をしている美紀を見て思わず息を飲んだ。 「あ……、珠希が美紀と一緒にいる」 正樹はたまらず呟いた。 正樹は珠希の癖を知っていた。 それを美紀もやっていたのだ。 それは、一つにざっくり纏めたヘアが気になり手を何度も持って行くことだった。 ストレートヘアが自慢だった珠希。 でも試合の時には邪魔になる。 だから緩く縛るのだ。 美紀は何時もはツインテールだった。 でも今日は珠希同じヘアスタイルだったのだ。 それは美紀が珠希の力を借りたくて選んだものだった。  「レディ」 主審の声が響き渡る。 練習を終わりにしてください。 今からゲームを開始しますから、と言う合図だ。 プレイヤーは決まったポジションにつかなければならない。 「サービスサイド松宮高校松尾美紀……」 審判が読み上げる自分の名前を聞きながら、美紀は応援席に目をやった。 (パパ、ありがとう。ママ……恥じないようにプレイーするから見ていてね) 美紀は力強く、天国にいるはずの珠希にも誓った。 それぞれの持ち場で全員が身構える。 「ママ力を貸して……」 二本のシャフトのラケットに語り掛ける。 美紀は前衛の位置で武者震いをしていた。  後衛のサーブはリターンされて美紀の後方へと飛んで行く。 後衛がこれを上手く処理してラリーに繋げた。 後はタイミングを見てスマッシュで決める。 「ワンゼロ」 主審の声が会場に響き渡った。 サーブ権のある選手が勝った場合得点は頭に付く。 硬式テニスのヒフティラブとは違い、ワン・ツーと発言する。 ワンゼロとは、サーバーに得点 が入ったことを意味していた。 同じ得点になった時はオールとなる。 ワンオール、ツーオールとなり、スリーオールでデュースになる。 デュースになった場合、先に二ポイント連取した者がそのゲームを制したことになる。 試合は全部で七ゲーム。 四ゲーム先取した者が勝者となる。  美紀は珠希が乗り移ったかのようなスーパープレイを連発した。 面白いように決まるスマッシュ。 勢いに乗って出したラケットが、エースになる。 一日目は絶好調だった。 美紀達は翌日の試合にも出場出来ることになった。  美紀は本当は負けたかったのだ。 その原因は秀樹と直樹にあった。 もし決勝戦で勝って全国大会の出場が決まったら、野球の応援に行けないからだった。 そんな気持ちでプレイをしても結果が良いはずがない。 昨日とは打って変わって絶不調。 でも……それでもいいかと開き直った。 (せめて決勝戦まではいきたい) それでもそう思う。 美紀はまだ本当は諦めてはいなかった。  (此処で諦めたら、ママの名前に傷が付く。そうだよ。私は長尾珠希の後継者なんだ。ママに夢続きを見せてやるんだ) 美紀の脳裏に正樹の入院していた病室で珠希のラケットを抱き締めた記憶がよみがえった。 (あの日私は、ママと同じ道を歩こうと決意した。でもそれはママではなく……私自身のためだったはずだ) 珠希の道を自分の夢とした時点で、それは既に自分の一部になっていたのだ。  「締まって行こう」 後衛も気配を察して声を掛ける。 「オーライ。頑張って行こう」 サーブ位置で美紀はボールを上げた。 珠希の学生時代に勤しんできた軟式テニスとは 違い、前衛もサーブをする。 これが今のソフトテニスだった。 「ワンスリー」 審判がサーバーに得点が入ったことをコールした。 「よっしゃー、挽回するぞー」 美紀は小さくガッツポーズをした。 準決勝は結局美紀達の勝利だった。 後は決勝戦。 勝てば全国大会。 でも、美紀は結局敗れ去った。 相手側が強かった。 そう言ってしまえば聞こえはいい。 だが美紀には解っていた。 甲子園に行こうと頑張っている兄達を応援したくて実力を発揮出来なかったことが。 (絶対言えない。そう、実力が無かっただけなんだから) 美紀は自分を戒めた。 (どうせなら……全て勝ちたかった。勝って有利に進めたかった) 美紀は初戦のスマッシュが忘れられなかったのだ。 そんな思いが敗戦へ誘ったのだろう。 それでも美紀は頑張ったのだ。 頑張ったつもりだったのだ。 美紀は負けた。 完敗だった。 でもそれを珠希の思惑だということにした。 それを言い訳にしようと勝手に決め付けたのだ。 単なる誤魔化しにすぎないことは美紀だって解っていた。 (ママごめんなさい。本当は私が負けたいと思ったの。それなのに……、ママのせいにして) 美紀は珠希の形見のラケットをいつまでも抱き締めていた。  正樹は結城智恵の過去を調べようと児童養護施設へ向かった。 原則一歳以上の幼児を養育する施設で、平成十年に改名されるまでは養護施設。 それ以前は孤児院とも呼ばれていた。 正樹は市役所で、美紀と自分の戸籍謄本を取ろうと申し込み用紙を二枚書いた。 「御家族ですか? それでしたら、世帯主の方だけ申請していただければ御家族全員の謄本をお出し出来ますが?」 用紙を見た役人はそう言った。 「あ、それでお願い致します」 正樹はそう言いながら、前にも同じようかことがあったと思い出していた。 そう…… それは美紀が本当は養女なのだと知った、あの高校への入学願書の添付資料だった。 今はそれも懐かしい思い出だった。 その足で結城智恵が中学時代をすごした施設へ向かった。 実は美紀を養女にする時に、詳しく調べなかったのだ。 珠希は美紀が愛しくて、手放してたくなかった当のだ。 美紀を胸に抱いて授乳させた時、既にその親子関係は樹立していたからだった。 両親共に他界していて、親戚縁者の居ないことは解っていた。 だから自分達の子供として育てたいと懇願したのだった。  持参した謄本を出して、自分が育てている娘の親がこの施設出身の結城智恵だと名乗った。 謄本と免許証を見て施設長は確かに本人であることを確認した。 正樹は目的は親捜しのためと打ち明け、保管されている資料の閲覧を請求した。  「えーっと、結城智恵さん…… あ、あったわ。こちらの方ですか?」 施設長が差し出したアルバム。そこには中学生の彼女がいた。 「私の母が名付け親なんです。出身地が茨城の結城でしたから。実は母は此処へ移る前は乳児院に勤めていました。そこで結城智恵さんと出会ったようです」  「彼女はいつも、『本当の出身地はコインロッカー』って言ってて。詳しい話を伺いたくて来ました」 「ああそれなら」 施設長は暫く席を外し、結城智恵の資料とアルバムを持って来た。 その中に挟んであった古い新聞記事を正樹に差し出した。 それは正樹の産まれた年・昭和四十五年の物だった。 "コインロッカーに乳児"のタイトル。 「この乳児が結城智恵さんです。この年大阪万博があって、コインロッカーの需要が高まり沢山作られたと母に聞きました。でもこのようなケースも発生し、母は嘆いていました」 施設長はそう言いながら、当時の彼女の写真付きの資料を出してきた。  「美紀似てる……。やはり美紀は母親似なんだな」 正樹がしみじみと呟く。 (そうだよな……だから俺は美紀に智恵を見ていたのか?) 親を探す手段なのか、特徴が細々と書かれた書類を見ながら何となく納得した。 「ところで、彼女の親見つかったんですか? あっそうか。見つかっていたら此処には……」 そう、いるはずはないのだ。 正樹は深々と頭を下げながら資料のコピーを受け取った。  正樹は新聞記事と資料のコピーを受け取り施設長の母親が住んでいると云うアパートに向かった。 「結城智恵さん? ああ良く覚えているわ。コインロッカーに捨てられていた。でも初めの頃で救われたの。きっとコインロッカーの使い方知らなかったのね。鍵がちゃんと掛かっていなくて、泣き声に気付いた」 元施設長の声が止まった。 正樹は見ると元施設長は泣いていた。 「あんな……あんな可愛い子を平気で捨てる親がいたなんて……本当に信じられない事件だったわ」 正樹の差し出した資料を見た元施設長は、再び涙を流した。 「不躾な質問ですが、彼女の旦那さんってどのような人だったのですか?」 正樹は一番聞きたい質問をした。 「あの子も駅で保護されたと聞いているわ。二歳年上だったのかな?」 元施設長は、手持ちのアルバムを出してきた。 「同じ時期に此処で出会ったのよ。彼は三歳児だと思われた。駅のホームに置いてきぼり。母親の顔が判断出来年頃でしょう? きっと辛かったと思うわ」 涙で声がかすれる。 「ごめんなさい。この頃涙もろくなっちゃって。似たような境遇だったから二人はいつも一緒にいたわ。まるで兄妹のようだった。智恵さんは乳児院から此処へ移されて心細かったのね。彼にベッタリだったわ」 そう言いながら、新聞の記事のストックの中から一枚を取り出した。 それには美紀の本当の父親・結城真吾(ゆうきしんご)の死亡記事が載っていた。 「えっ!? この男性は確か……」 「そう、ロックグループのボーカルだった結城真吾。彼よ」 「確か熱狂的なファンに殺されたと聞きましたが……」 結城真吾は園長が名付けた名前ではなかった。 智恵と結婚しようとした真吾自身が選んだ名前だった。 同棲中から。 デビューする前から。 彼はそう名乗っていた。 誰もが本名だと疑わなかった。 でもそれは、それを本名にするための手続き。 それだけ真吾は智恵との結婚に前向きだったのだ。  正樹はもらって来た資料と自分が見つけ出した記事のコピーを美紀に渡した。 「この人が本当にパパ? カッコイイ人だね」 美紀が見ている新聞の写しは、正樹が図書で手に入れたものだった。 父親が人気ミュージシャンだと解って美紀は複雑だった。 当時一大センセーションを巻き起こした人気ロックグループ。 α(アルファ) そこのボーカル。 それが美紀の父親だったのだ。 真吾がこの道に進んだのには訳があった。本当の親を探すためだった。 『親の顔が見てみたい』 事情を知っている友達からもそう言ってからかわれた。 気にしたくなくても気になった。 それならばと施設育ちと駅に捨てられていた事実を全面に出して、親を探そうとしたのだった。 駅に放置された子供。 手掛かりはそれだけだった。 もしホームから落ちたら即死になるかも知れない。 それを承知で敢えて置き去りにした親なんて本当は探したくもないはずなのに、真吾は智恵を紹介したくて公表したのだった。 ずっと支え合って来た智恵に子供が宿ったと知った時、初めて家族が出来たと大喜びした真吾。 事務所の反対を押し切って結婚を発表した。 中には、熱狂的なファンもいた。 彼女さえいなかったら私が。 その願望が犯罪を招いた。 二人でいたところを狙われてしまったのだ。 刺されたのは真吾だった。 智恵を庇ったためだった。 真吾は公表した事を愛する妻に詫びながら死んでいったのだった。  「父が庇ってくれなかったら私はここに居なかったのね」 美紀は泣きながら父と母のアルバムを抱いていた。 「お前のお母さんは、彼の意志を継いでお前を産んだんだ。愛のために」 学校から帰って来た秀樹と直樹もその事実を知らされた。 「美紀の父親がミュージシャンだったなんて。カッコ良すぎる」 直樹が言った。 「家のパパとは大違いだ」 調子づいて秀樹が言う。 「こらっ。親を馬鹿にして!」 正樹の軽い拳骨が飛ぶ。 「だってパパ、がに股なんだもん」 「これは所謂職業病だ。投げ飛ばされないように体を低くするんだよ」 苦しい言い訳だと正樹は思う。 そんな三人を隣で暖かく見守る美紀。 優しさ溢れる家族の姿がそこにあった。  学校では秀樹の豪速球が加速していた。 今年こそ甲子園に行こう! を合い言葉に、気持ちを高め合ってきた秀樹と直樹。 恋のライバル度もヒートアップしていた。 一人だけ取り残された観の大は地団駄を踏む。 「お前ら兄弟だろー!」 とわめき散らしては二人を困らせていた。 三つ子が双子となり、兄弟が恋のライバルになる。 そんなスキャンダラスな関係を学校は放っておかなかった。 ましてや直樹は生徒会長なのだ。 見本にならなければいけない立場の人間なのだ。 厳重注意が二人に下る。 大が騒いだのはこのためだった。 しめたと大はほくそ笑む。 恋愛バトルは無法状態に移行していた。  困り果てた正樹は、三人に休戦を提案した。 その情熱を持って甲子園を目指せと説得した。 「私を甲子園に連れてって!」 と美紀も一役かったことで、大は渋々承諾した。 「私がソフトテニスで負けたのは、兄貴達と一緒に甲子園に行きたいからなのよ」 言ってしまってドキンとした。 「だって、ハイスクールジャパンカップで家を空けられない。私は兄貴達にベストコンディションで戦ってほしかったの」 言い訳だと解っていた。 でも大は肩を震わせていた。 「美紀の気持ちは解ったな。それだけお前達に勝ってもらいたいんだよ。はい大君手を出して。さあお前達も」 正樹はそう言いながら、自分の手の下で三人の手を重ねてさせた。 「さあ、休戦協定完了」 正樹はみんなを諭すように言った。  (ママ、これで良かったの?) 負け惜しみだと解っていても意地を張りたかった。 本当は、力不足で負けたのだ。 そのことは美紀が一番解っていた。 それなのに、恩着せがまし発言をしてしまった。 美紀は落ち込んでいた。 (ママ。やはり悔しいよ。だから兄貴達には勝ってもらいたいの。甲子園に行く夢を叶えてほしいの。私を連れて行ってもらいたいの。でも……、あの発言は酷かった) それは美紀の本心のようだった。 でも美紀は複雑だった。 大と秀樹と直樹。 それぞれに思われて…… そのうち、この三人の内の誰かと…… 正樹のことだから、きっとそうする。 美紀はそれが怖かった。 それが一番怖かった。  午後の練習はまずロードから始まる。 野球の練習グランドのフェンスの先には川が流れていた。 この川の橋から橋まで一周する。 クールダウンとウォーミングアップ後、それぞれの練習メニューをこなす。 練習終了後の道具の手入れは欠かせない。 直美は詩織の指導の元に部員達をサポートを徹底していた。  プロ野球の世界ではワンシームも登場しているが、秀樹のツーシームは向かうとこ敵なしに思われた。 ボールを少し浅めの握り、親指は人差し指と中指の間の下におく。 人差し指と中指の間は其処にもう一本指が入る位開けて握り、ボールの縫い目に沿って、第一関節がかかるようにするのが基本だった。 握ったボールの一回転の間に二つの縫い目が見えるのをツーシームと言い、少し沈むボールになると言われている。 腕の振りはストレートと同じ。指は縫い目の外にかけ、指の力の加減で二種類の変化球を投げ分ける。人差し指に力を入れると横に曲がる。また、縦にも変化させることも出来るのだ。その方法は人差し指と中指に力を入れ、手首を下に落とすようにリリースすることだった。 勿論伸びるボールのフォーシームも健在だった。 それもそのはずで、このフォーシームこそがストレートの基本中の基本だったのだ。 ツーシームがストライプだとしたら、フォーシームはボーダー柄。 同じストレートでも、握り方一つで全く違う球質になる。 秀樹は真のエースを目指して頑張っていた。 秀樹は新コーチの指導の元でスクスク育っていったのだった。  コーチは秀樹の才能を見抜いて高くかっていた。磨けばいくらでも光る器在であることも。 でも、お調子者の秀樹にそのことは言わなかった。 全て女房役の直樹に任せていた。 双子だから。 と、ツーカーの部分に賭けたのだった。 カーブ、シュート、スライダー、チェンジアップも一応はマスターしていた。 でも秀樹はもうそれを使おうとは思わなかった。 豪速球が生かされるのはやはりストレートだと確信していたからだった。 『正しいフォームで投げてこそ、コントロール出来るんだ』とコーチが常に言っていた。 その通りだと素直に思う。 秀樹はそれだけ成長したと言える。 秀樹は目を閉じた。 直樹の構えるキャッチャーミットを意識するために。 リラックスして振りかぶり、片足をゆっくりと上げる。 秀樹は迷わずに直球を投げた。 「ナイスピッチング!!」 直樹の声が聞こえる。 秀樹はその時、真のエースになりたいと本気で思っていた。  正樹は時間の許す限り、智恵の親探しに没頭した。 あちこちの図書館に行っては、古い新聞を読みあさった。 何とか手掛かりを得ようと必至だったのだ。  ある日正樹は東京駅構内にいた。 智恵が放置され、保護されたコインロッカーは、この駅にあったのだ。 数多くのコインロッカーが、所狭しと設置してある。 当たり前の様に使用する若者達。 もしこの中に乳幼児を捨てようとしている者があったら?そう考えると背筋が寒くなる。 暗闇の中で母を求めて必死に泣き叫んだであろう智恵が哀れでならなかった。  正樹はインターネットで昭和四十五年の出来事を検索していた。 日本初のハイジャック事件や自衛隊乱入割腹事件。 その時代の流れの速さを感じる。 それを象徴する新幹線。 大阪万博。 そんな中に、ふと誘拐事件の記事に目を留めた。 それはコインロッカーで智恵の見つかる五日前のことだった。 何かある。正樹は直感した。 その事件は大阪近郊で起きていた。 大阪と東京を繋ぐ真っ直ぐな一本線。 正樹はその時ピンときた。 もし犯人が誘拐した乳児の始末に困ったとしたら、大阪よりも東京の方が安全だと考えたら…… 「東京駅のコインロッカー!」 正樹は自分の出した結論を何度も何度も頭の中で繰り返した。  「お前達、甲子園に行ってくれないか?」 学校から帰って来たばかりの秀樹と直樹を待ち構えていたかのように、正樹は言った。 「何だよ。藪から棒に」 秀樹はそうは言ったものの、事の重大性に気付き身構えた。 「これだよ」 正樹はそう言いながら、インターネットで調べた誘拐事件のプリントを二人に見せた。 「四十年も前の事件だから時効は成立している。けれど、子供を誘拐された家族には終わりはない」 「この大阪で誘拐された女の子が美紀のママだって言うの?」 「だから甲子園を目指して大阪に行けって言うの? でも甲子園って兵庫県だよ」 「言われなくても分かってる。ちょうど夏休みだから美紀も一緒に探せるし」 正樹は涙目になっていた。 美紀には幸せになってもらいたかった。 自分のルーツを知ることで自信を持たせてあげたかったのだ。  正樹は校長室を訪れ、何故三つ子がと双子になったのか。 何故美紀を大切にしたいのかを打ち明けた。 全ては優しさだと気付いた校長先生は、この恋のバトルを見守ることを約束してくれた。  長尾家のキッチンは朝から大賑わいだった。 三畳程の広さの中に、男女三人。 狭い狭い。 冷蔵庫に食器棚に流し台。 全部その中に入っているから、ギュウギュウだった。 手伝う約束で其処にいる秀樹と直樹。 それなのに…… 此処ぞとばかりに邪魔をする。 美紀は朝早くからお弁当作りに精を出していた。 実は、その味見がしたくて集まって来たのだった。 「おっ、唐揚げ。うまそー!」 秀樹がつまみ食いをする。 それを笑いながら見ている美紀。 「兄貴だめだよ。おかずが無くなるよ」 そう言いながら直樹も手を出す。 (もう、全く子供なんだから) 美紀は母親にでもなったような心持ちだった。 (何時か本当の親になりたい。この兄弟達から母親だと認められたい。パパのお嫁さんになりたい)  美紀は自分が養女だと知った時、本当は嬉しくて嬉しくて仕方なかった。 子供の頃からの夢が叶うかも知れないと思ったからだった。 それは勿論パパのお嫁さん。 だから美紀は珠希の真似をするのだ。 インターハイの時同様に、キッチンに立つ美紀の邪魔…… お手伝いをするのだ。  直樹と秀樹は美紀からパワーを貰いたかったのだ。 大がどんなに地団駄を踏んでも手に入れることの出来ない兄弟と言う名の特権で。 「こらー! お前ら!」 台所を覗いた正樹の渇が飛ぶ。 正樹に首根っこを抑えられ、二人はあえなく退場させられた。 「あれー、お助けを」 秀樹が美紀に救いを求める。 「問答無用」 正樹の豪腕に、呆気ない幕切れだった。 「お前らー、まだ美紀はお前らのお母さんじゃないんだぞ」 言ってしまってから正樹は重大発言に気付いて戸惑っていた。 でも、美紀はそんなありふれた日常に幸せを感じていた。 直樹も秀樹もその発言を気にしてないようだった。 正樹はホッと胸をなで下ろした。 珠希のお弁当作りの邪魔をする。 そう…… これが長尾家のイベント風景だった。 美紀はこの家に貰われて来たことを、心の底から感謝していた。 お調子者の秀樹に何度励まされたことか? 優しい直樹に何度救われたことか? 美紀はこの素晴らしい家族の一員になれた幸せに酔っていた。  今日は地区予選最終日。 これに勝てば、いよいよ甲子園の舞台。 秀樹と直樹の夢が後一歩に近付いていた。 吹奏楽部は校歌の練習。 俄か結成のバトントワリングも呼吸を合わせることに余念がない。  秀樹の豪速球は地元の話題になっていた。 全国区の新聞記事にも取り上げられる程だった。 でもそれには別の意図もあった。 ――元プロレスラー・平成の小影虎の息子―― タイトルは全てそれだった。 秀樹も直樹も正樹とは違い長身で格好いい。 当然ファンも増大する。 勿論、正樹ファンも見逃さなかった。 そう…… 沙耶にお見合いを頼んだ人のように、正樹ファンも虎視眈々とチャンスを狙っていたのだった。 一躍人気者となった秀樹と直樹。 でも二人は、美紀一辺倒だった。 他の人には目もくれないで、真っ直ぐに美紀だけを見つめ続けていた。 二人の親友と位置付けられた大も同じだった。 一分の望みをかけて三者三様の恋愛バトルを繰り返していた。 休戦協定は守られてはいた。 それでも、自分の存在をアピールしたかった。 その全てが、次の一戦にかかっていたのだ。  地方予選の優勝決定戦は最終回を迎えいた。 九回の裏、二死満塁。 秀樹は自信を失いかけていた。 地方の投手の中で最強だと言われていた秀樹。 それはツーシームがあったからだった。 それがいとも簡単に打たれたのだ。 秀樹は研究され尽くしていた。 それは、目立ちたがり屋の盲点だった。 秀樹は自分の投球に自信を持ち過ぎていたのだった。 がっくり肩を落とした秀樹には、余裕の表情も消え失せていた。 勝つにはホームランしか有り得なかった。 一打逆転。 願ってもないのチャンスだった。 そして、バッターはキャプテン直樹。 秀樹は祈るような思いで直樹を見入っていた。  直樹は今まで兄である秀樹に振り回されてきた。 野球を始めたのも秀樹の強引の誘いがあったからだ。 本当はサッカーがやりたかった。 技術だけなら一人でも成長出来るスポーツだったから。 でも秀樹はボールを受けるためだけの直樹を離さなかった。 少年野球団の中で、目立ちたがり屋の秀樹がもっと目立つために。 辛かった。 自分の意見など聞く耳さえ持たない秀樹の傲慢さに嫌気もさしていた。 嫌々で遣っている態度を秀樹に咎められた時はもう辞めてやるとさえ思った。  秀樹は小さい時からキャッチボールの相手をさせていた直樹を放したくなかったのだ。 ただそれだけの理由で直樹を束縛しようとしていたのだ。 秀樹は長男だった。 それだけで自分は偉いと勘違いしていたのだった。 双子だから、三つ子だから産まれた日は一緒などと言ったって何とも感じていなかったのだ。 秀樹はただ自分の言うことを聞く家来としか直樹を見ていなかったのだ。 秀樹の頭の中には野球以外なかったのだ。 自分が気持ち良くプレイ出来ればそれだけで良かったのだった。 勿論珠希も正樹も戒めてくれた。 それでも、秀樹は我が儘だった。 秀樹のために何度泣かされただろうか。 直樹は自暴自棄に陥入っていた。  そんな時に自分を変える出来事があった。 それは秀樹が勝手に少年野球団へ直樹を入れた頃だった。 ある少女との出逢いがきっかけだだった。 それは五月の最終日曜日にゴミゼロ運動に参加していた時だった。 地域での交流を大切にしていた珠希夫婦は、三つ子と共にそれに参加していた。 ゴミゼロとは普通五月三十日に行われる地域の掃除だった。 病院の横の道で、少し赤みを帯びた髪をそよ風になびかせながら佇む少女がいた。 「何見てるの?」 直樹は気さくに声を掛けた。 すると少女は小さな花を指差した。 「この花、忍冬って言うんだって」 「スイカズラ?」 「うん。忍ぶと冬書くんだって」 直樹は何故かその花に興味を持った。 そっと近付くと甘い匂いがした。 「あれっ、この花二つで一つだ」 「うん、だから好きなの。私お母さんと二人暮らしなの。お父さんが死ぬ時に言っていたの。忍冬のように二人仲良く生きて行ってほしいと」 悲しい話をしているのに、少女は明るく言った。 その時直樹は、その二つの花が自分と秀樹のように思えていた。 (サッカーなら一人でも出来る。でも野球は自分が居なくちゃ始まらない。兄貴には俺が必要なんだ) 直樹はその時やっと、秀樹と共に野球を続けることを決めたのだった。 直樹には、その少女が忘れられない存在になっていた。 それは直樹の淡い初恋だった。  スイカズラは忍冬(にんとう)とも言う。 寒い冬も枯れることなく耐え忍ぶからだ。 直樹も悩みながら成長してきた。 だから自然と自分に重ねてしまうのだった。 直樹はその人を《忍冬の君》と命名して秘かに探し続けていたのだ。  直樹はその少女が同い年にくらいに見えていた。 だからクラス替えや転校生に期待した。 勿論、小学校や中学校の生徒全員も視野に入れていた。 それでも二度と逢うことは叶わなかったのだ。 その少女が忘れられないくせに美紀を愛してしまった直樹。 正樹の推理を鵜呑みにした訳ではないのだが、何としてでも美紀を大阪に連れて行きたかったのだ。 甲子園が兵庫県にあることは承知していた。 でも甲子園に応援に行くことを理由にプロレスの興行を休めるかも知れないのだ。 是が非でも、美紀に本当の家族を会わせてやりたい正樹の気持ちは解っていた。 直樹自身もその願いを叶えてあげたいと思っていたのだった。  そして今、最高の舞台に直樹はいた。 地方予選の優勝決定戦の最終回。 しかも、九回の裏二死満塁。 直樹の一振りで試合が決まる大事な打席だ。 自信を失いかけていた秀樹のためにも、美紀を甲子園に連れて行くためにも直樹は集中しようとしていた。 「美紀!」 直樹はありったけの力を込めてスイングした。 「ワーーーー!」 歓声が球場全体を包み込んだ。 直樹は一瞬、我を忘れていた。 慌てて見上げると打球はスタンドに吸い込まれた後だった。  逆転満塁サヨナラホームラン。 劇的な幕切れだった。 凄まじい歓声と共にダイヤモンドを一周する直樹。 何が何だか判らず戸惑っていた。 「直樹ー!」 秀樹が抱きついてくる。 「スゲー! 直ー! 凄過ぎるぞ!」 大も泣きながら直樹を迎える。 直樹はもみくちゃになりながら、初めて野球を続けていて良かったと思った。 「甲子園だー!」 直樹が雄叫びを上げる。 感情を大爆発させて喜ぶ直樹。 こんな激しい直樹を今まで見たことがなかった。 スタンドで観戦していた正樹も体を震わせて泣いていた。  地元の新聞・メディアの取材を受ける直樹。 何時も秀樹の引き立て役だった直樹。 いきなり主役になり戸惑いを隠せない。 主役の座を奪われた秀樹も、功績を認めざるを得なかった。 「直ニイありがとう」 美紀は直樹の頬にキスをする。 照れて俯く直樹。 「よーし! 今度は俺が主役だー!」 秀樹が叫ぶ。 「違う俺だー!」 大も叫ぶ。 「よーし! 三人で競争だー! 今度は甲子園で勝負だ!」 恋のバトルは益々激しくヒートアップしていく様相をていしていた。
/19ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4人が本棚に入れています
本棚に追加