AM 2:40 -栄

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AM 2:40 -栄

ピンクの看板は肌寒い空気をより一層引き立て、客入りが悪くともただじっと点滅を繰り返して、まだ見ぬ誰かの欲望をつつけるように、今日も労働している。 うって変わって隣のコーヒーチェーンはすべての店内灯を落とし、この街に溶け込んでしまった。 板を抱えて歩くスケーターらしき若者はニット帽の上にフードを被り、物珍しそうな顔でこちらを覗き見る。別にそんなに興味を持たれるほど面白い人間ではない。それでいてやはり、自分とは対岸にいるであろう人種には心なしか見てみたいという好奇心はあるのだろう。その視線はいつも一方的なのだが。 安い値段設定の居酒屋チェーンで申し訳ない。そんなことを言いながら、君と初めて二人で食事をした。ましてや君は車で来てくれているにも関わらず、待ち合わせの時間が遅過ぎたせいも相まって、居酒屋に入る以外の選択肢がなかった。ただ、うまく日程を合わせられたことに舞い上がっていた私は、ひとまず謝り、下手に出て君の様子を伺うほかなかった。 とりあえずのつまみを突きながら、お互いの共通点を探る時間が続く。たまたま私と君の箸同士が触れてしまい、私がしまったという顔をしておどけた時に見せた、この日初めての崩れた笑顔に私はとても心が躍った。 そこからはお酒の力を借りながら、いろんな話をした。正直、聞きたくないことも聞き、案の定、聞きたくないままの返答が返ってくることもあった。ちょっとしんどい思いをしてでも、なんでも知っておきたかった。 君は箸の使い方がとても綺麗だった。今すぐにホッケの開きを食べて見てほしいとすら思っていた。 君はこの日の数時間で、私に対してどういう印象を持っていたのかは結局明かさず仕舞いであったが、今思えば「いい人」にはなれていたのだなと思うと、胸が締め付けられてしまう。私は今、君にとって「いい人」ではないのだから。 コンビニの前ではホームレスの男性が、袋につめた空き缶を自転車につなぎ直す作業に勤しんでいる。この街では朝によく見かける景色だと思っていた。この街は眠らないわけではない。私たちが眠っている間に、体の中で回復や治癒が行われているように、眠る街の傍で、また別の意思を持つものがこの街を巡っているのだ。朝はカラスが業務用ゴミ袋をつつき、昼はオフィスの間を歩くスーツに溢れ、夕方はバンドマンが歩き、飲食店は賑わい、夜になると男と女の色欲深い空気に変わる。 循環している。その傍らを、私はずっと遠くから見ているような目をして、過ぎ去っていく。この街に吹き抜ける風のように。 君と頻繁に連絡を取り合うようになってから、少し経った。2月に差し掛かり、世の居酒屋は歓送別会の案内を軒先に掲示していた。そんな居酒屋の座敷で、君から一日遅れのチョコを手渡された。 何度かSNSで見たことのある、惑星がかたどられたチョコレートは、暖房のきつくかかったこの店舗内でも綺麗に形を留め、私の視線を射止めた。 私は拍子抜けした。それと同時に笑いが込み上げた。 私は子供の頃から空を見上げるのが好きだった。まだ見たことのないこの空の先の宇宙に、私だけではない世界中の人が知らない世の中があるということに夢を見て、心を踊らせていた。そんな私は世間的には大人と呼ばれる年齢になった今でも、地球外生命体や惑星、銀河やブラックホールなどを時間を見つけては調べていた。 側から見ればなんてことのないチョコだった。私以外の人には、きっとお金という価値の付いただけの、バレンタインというイベントにかっこ付いただけの、そんなチョコだったに違いない。ただ、私にとっては、話した記憶もない私自身の趣味嗜好のど真ん中を無意識に当ててしまう、君との周波数のようなものを、直感的に信じずにはいられなかった。 「私と付き合ってほしいんだ。」 呼吸をするように、私の言葉は口から出てきた。とても綺麗に、スムーズに。 一瞬、君は戸惑ったような顔をしたが、直後には私の好きなその崩れた笑顔を私に向けていた。 「私でいいなら、よろしくお願いします。」その言葉は私の目を真っ直ぐに見ていた。私の中でビックバンは起こらなかった。隕石の衝突も、量子力学の法則も、重力も引力もそこにはなかった。少しだけ感じた。何かが動いたかもしれないという気持ちは、あの日、私が初めて地球外生命体の存在に胸を躍らせたそれに近しいものを感じた。発見したのだ。この地球上においても、まだ私が出会ったことのない感情というものが存在することを。 今日も空は広い。薄くかかる雲の隙間から、少し欠けた月や、名前も知らない星たちが何億光年と前の光を放ちながら、私の頭上に浮いている。 この街ではたった数秒の間に目に飛び込んでくる光が、情報として私たちを時に惑わせ、時に導いている。文明はかけがえのないことであるが、まさしく今の自分にはどうでもいい光の反射にしか写っていなかった。 いつしか閉店していた丸栄のあったはずの場所を横目に過ぎ、また次第に光の数が減っていく。タクシーが私の脇で止まり、道ゆくカップルを乗せ、新しい家路に着く。平日とて騒がしい街は次第に遠のいて、いつしか聞こえなくなって、存在が意識の中から消える。 人間は純粋であり続けることができないのだろうか。 光を放つものに憧れ、未来に希望を抱き、大人になることに憧れ、ありもしない偶像に夢を見ていた。 いつからか、そこにないものをあるように見せることに着眼し、何もしていない振りをして裏で努力をすることを覚え、嘘を吐き、虚勢を張り、汚いものを見て見ぬ振りし、臭いものに蓋をするようになった。私が掴んだ大人というのは、そういうものかもしれない。 それでも、光の消えた今、私はあの日感じた小さな鼓動のような、ときめきのようなものを、自分の一番中心に置いておけなかった。 だからこそ、私は公転周期を失い、太陽系惑星から外される冥王星のように、途方もなく広い宇宙の片隅で、どこに向かっているのかわからないほど真っ直ぐに、この街の隅を歩いている。 私は放り出されたのではない。自分で選んで歩いているのだ。
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