距離感

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「ピカドン――」 多分、善次郎さんは、何を聞いても受け止めようとしてくれていた。 そうであっても、彼はたじろいでしまった。 当然だ。 「当たり前……ですね」 誰もが知っていて当然。 そして、誰もが怯まずにはいられない。 双方の意味を零して、私は目を閉じた。  今から十六年前、昭和二十年八月六日の朝、広島に世界初の原子爆弾が投下された。  ピカッと、光ってドンっと落ちた衝撃から、あの恐ろしい爆弾はそう呼ばれた。名前ばかりが可愛らしいそれは、人類の英知が作り出した魔物だ。  あの爆弾が奪ったものは計り知れない。  命も、尊厳も――そんな言葉ではまるで言い足りない。  表現などしきれないほどの、何もかもを一瞬で滅茶苦茶に破壊した。  とにかく根こそぎ奪っておいて、それでも飽き足りず、未来にまで爪痕を残していく。  その当時、私は八つのどこにでもいる子供だった。  出産を控えた母に連れ立って、私は母の実家である広島の漁村に身を寄せているところだった。臨月までにはまだ随分と間があったが、戦時中だった為に疎開の意味もあったのだ。 「随分と離れていたので私たちは無事でしたが、市内に働きに出ていた私の祖父は、そこで亡くなりました」 身重だった母と私を家に残し、祖母は幾日も必死で探し回ったが、結局、祖父の遺体は見つからなかった。 「悪いことというのは続く様で、色々な心労が重なったせいで、母は流産してしまいました」 ようやくにして帰省した母と私を待っていたのは、根も葉もない差別だった。 「私の母はピカドンの女と呼ばれ、そして、私はピカドンの子でした」 多分、私は闇よりも暗い瞳をしていた。    善次郎さんは話の筋を予想していたのだろう。 最初ほどには怯まなかった。 「(うつるのではないかと)安心できる材料になるかは分かりませんが、母も私も『被爆者』ではありません」 国の定めた規定の範囲には該当しない。    当時、放射能という目には視えない猛毒は、何の知識も与えられていない状況下では、何倍にもなって人の心に巣食い、取り分け他県においては驚異的な広がりを見せていた。 つい昨日までは元気であったのに、突然血を吐き、倒れ伏す人が後を絶たないという噂――白血病だ。 そして、噂は真実でもあった。  病が感染するのではないかと怯えるあまりに、『広島』というだけで、多くの人が差別的な目を向けたのだ。  漏れることなく、私の実の父もその一人だった。 『私たちは被曝していません!被爆者ではありません!』 聞く耳は持たれなかった。 それどころか流産した事実を根拠に、父や父方の家族は母と私を疎外した。 そんな折に、追い打ちをかけて『ハハ ピカドンニテ シス』の電報が届く。    別れの時は気丈だった祖母。 その祖母は祖父の後を追うように儚い人となる。 祖母は、祖父を探す為に爆心地に向かったために被曝に至ったのだ。 「母はあっさりと父に三行半(みくだりはん)を言い渡されました」  母子二人で途方に暮れ、一言も何も話すことなく長い道のりをただ呆然と歩いた。  幼いながらも、母が堪え切れないほどの想いを抱えていると分かっていた私は、ただ黙って痛む足を動かしていた。  あの日の、血のように赤い夕焼けは、今も鮮明に記憶に残っている。
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