距離感

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ユキちゃん……ユキちゃん……。 遠く、宗太と奈津の声が聞こえる。 応えようにもどうにも瞼が重い。 ユキちゃん……。 その心細い声音に、ともかくもと、伸ばした手を誰かが握ってくれた。 二人のものでない大きな手に違和感を抱いて、意識が明るい方へと一気に浮上する。 それに、何だか物々しい気配に不信感を募らせた。 頬に当たった雨粒。 え? 雨漏り? 雨漏りしているの!? 「た、大変っ!桶っ!!!」 バッチっと、覚醒を果たして息を呑んだ。 目覚めのいの一番に男前を拝むことになるとは思わなかった。 近距離で見て、納得。 世の女性が騒ぐ筈だと頷いた。 「桶って何ですか?」 さぁ、何でしょう? 見ていた夢はすっかり忘れてしまった。 「それよりも、えっと、これはどういう状況なんでしょうか?」 善次郎さんに抱き留められている状況で、私の手はしっかりと彼の手の内にある。 奈津に読んで上げたことのある『眠れる森の美女』の挿絵の構図に瓜二つ。 美女でないところだけが残念だ。 「ユキちゃんっ!!!」 その奈津が飛び込んできて、次いで宗太が争うようにしがみつく。 これはいつもの光景だけれど、何度味わっても嬉しいが込み上げる。 ただ、二人が泣いていることには眉根を寄せてしまう。 「はい、皆さん、ちょっと通してね」 ご隠居さんの声に、ようやく私は下宿生の皆さんらにも、遠巻きに囲まれていることに気づいて狼狽えた。 「うん、うん。意識が戻ったなら大丈夫かな。チビちゃんたち、後で散々甘えていいから、ちょおっと、ジジイに診せてね」 その言葉に、自分が倒れてしまったことをようやく理解した。 「頭、打たなかった?」 ご隠居さんが訊ねたのは善次郎さんにだ。 「大丈夫です。受け止めましたから」 気恥ずかしさから身を起そうとするのに、ご隠居さんに押し留められてしまう。 「うん、うん。受け止めてくれたの。それは良かった、良かった」 言いながらにして、私の額に手を当てて熱を測り、瞳を視て貧血具合を確認していく。 「自分の名前、年齢、それに……彼らの名前、全て言えるかな?」 ご隠居さんは、試すように私を囲む皆をぐるりと指さした。 最初の二つはともかくとして、意識レベルの確認にしては大事(おおごと)だ。 善次郎さんに立たせて貰うも、彼の手はしっかりと私を支えたまま放す気は無いと告げていた。 「うん、そのまましっかり支えておいてね」 ご隠居さんに念を押される始末。 観念して自分の名と、年齢をさらりと告げた。 そして、じっと穴が開くほどこちらを見つめている彼の名から挙げる。 「沢渡善次郎さん、それにお子さんの宗ちゃんと、なっちゃん」 「はいっ!」「はい!」 張り切って返事をする可愛い二人に、にっこり笑みで返した。 「善次郎さんのお弟子さんの湯葉さん」 多分、宗太が夜泣きでもしたのだろう。 手を焼いた彼は帰りの遅い善次郎さんを迎えに来たに違いない。 申し訳ない気持ちで、彼に会釈で返した。 「下宿生の京橋さん、向井さん、西さん――」 等々と順繰りに名前を挙げながらお礼を返していく。 最後に奥から遠慮がちに顔を覗かせていた林さんの名前も洩れなく挙げた。 林さんは、照れたように頭を掻いた。そして、私の無事を確認する会釈を返して、自室に戻って行った。  ちょっとした騒動になってしまい、本当に申し訳ない。 「ご隠居さん、私は大丈夫です。少し疲れが出てしまっただけなんです」 ご隠居さんは私の過去を知っている。 「うん。フラッシュバック――心的外傷後ストレス障害かな。あんまり思いつめるのは良くないよ。もっと、自分に優しく生きなさい。でないとこんなに沢山の皆を哀しませることになる」 ねぇ?と、ご隠居さんは皆に肩を竦めて見せた。 「紺野さん、明日はお休みにしてください。偶にはぐうたら朝寝坊でもしてください。なぁ?」 下宿生の中でも最年長の京橋さんが皆に賛同を求めた。 「はい、でないと俺らもぐうたらしていられないですしね」 皆が頷き合う。 「そういうことなんで、明日は一日『ひじり荘』は定休日とさせていただきます」 彼らは満場一致でストライキ宣告を果たして、ぞろぞろと解散した。 唖然とする以上に、色々と不甲斐ない気持ちが優先して下を向いてしまう。 「僕が言っていること、ちゃんと分かってる?ユキちゃんのそういうところなんだよ?」 医師らしい毅然とした声音は久しく聞かなかった声だ。ご隠居さんは私の額に人差し指を突き付け、顔を上げさせた。 「ちゃんと受け止めないと駄目だよ。皆は君を裏切る敵じゃない。そんなのは、あまりに哀しすぎるじゃないか」 ご隠居さんは悲痛に顔を歪めて、私を窘めた。 「もう、戦争は終わったんだ」  彼は医師だ。  あの酷かった惨状を、人の死を、誰よりも近しいところで見てきたに違いない。  そんな彼の言葉は重かった。 「……っ」  終わらせたくなかったのは私だ。 たくさんの死を、母の死を、無かったことにしたくなかったのだ。 悼むよりも、憤り続けていた。 怒りは悲しみを遥かに超えて、私の涙を止めた。 もう、ずっと長い間、私は怒りを抱えることで泣くことを我慢してきた。 泣き方を忘れるほどに我慢を重ね、すっかり渇き切ってしまっていると思っていたというのに、私は込み上げてくる嗚咽を止められないほどに泣きじゃくってしまう。  善次郎さんはただ黙って、そんな私を受け止めてくれていた。
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