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責任感
大戦が明け、生き残った者はがむしゃらにその命を繋いだ。
気付けば、時は昭和三十年代に突入していたが、日本がその歩みを緩めることは無い。
何よりも経済成長を最優先に考えた時の首相、池田隼人の『所得倍増』を合言葉に、多くの若者が進学することよりも就職を選んで、地方から都市に雪崩れ込んでくる。
私――紺野雪乃(24)は、そんな『金の卵』と呼ばれる彼らの下宿先『ひじり荘』で、下働きを務めていた。
木造建築二階建ての『ひじり荘』は常に満員御礼。
この建物の施設管理の全般と、一階に設けた食堂を切り盛りすることが私の仕事である。当初は下宿人のための食堂であったのだが、今や、口コミであれよ、あれよと、一般にまで客足が広がりを見せている。
つまり、息吐く間もないほどに私は忙しかった。
「これは、完全にご隠居さんに乗せられた……?」
ご隠居さん――黒岩友三(70)は『ひじり荘』の大家であり、私の雇用主である。
ご隠居さんと私との出会いは六年前に遡る。
当時、完全ブラック企業の工場勤務だった私は、あわや過労死寸前にあった。路上にフラリと倒れ込んだところを、町医者をしていた彼に助けられたのだ。
『そんな会社は辞めて、うちで働けばいい』
とは言え、『石の上にも三年』とはよく言った言葉。
二年足らずで工場を辞めることには抵抗があった。
『このままだと死ぬよ?君が死んだとして、悔やむ者はその工場にいるのかい?』
悲しいかな、誰の顔も浮かばなかった。
元より哀しむ者など誰一人いない。
私は施設育ちで、天涯孤独の身の上だった。
だからこそ、居場所を求めてがむしゃらに前だけを見据えて働いていたのだ。
『大丈夫。食うに困らないくらいには給金を払えるよ。君なら十二分に頑張ってくれる。違うかい?』
どこでも、頑張れる。
これまでだって、我慢の連続だったのだから。
それだけが私の誇れる唯一の武器だった。
私は彼の言葉通りに工場を辞めて、彼の助手として働くことにした。
しかし、医師としての彼の寿命は短かく、僅か三年ばかりでその道を引退し、彼は下宿経営に乗り出したのだ。
いえ、契約から何からほとんど私に丸投げに近い形で、彼は隠居暮らしに突入した。
『後は、ユキちゃんが好きにしてくれていいよ。もうジジイは引っ込んで、家賃収入で安穏に暮らしていければいいからぁ』
『いいからぁ』『らぁ』『らぁ』と、当時の語尾が未だに耳奥でエコーして聞こえる。
そんな人任せなと、激昂するところかもしれないが、全幅の信頼を寄せられた衝撃波は凄まじく、呆然としたことを覚えている。
なんせ、土地を担保に銀行から借り入れもしているのだ。
失敗は許されないと、身の引き締まる思いで私は賃貸経営に臨んでいる。
「ふぁぁああ、今日もいい天気だねぇ」
こちらが闘争心剥き出しで日々を勤しんでいるというのに、彼は本当にのんびりと庭先で趣味の盆栽を弄りながら、大欠伸をしていた。
(……)
あのクソジジィと、そう思えればまだ私は真っ当だったのだろう。
思わず緩んでしまった口元に、あんな風に穏やかに生きられないのは、自分の性分なのだと妙に納得してしまった。
まぁ、いいかと、うっかり和んでしまった自分が憎い。
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