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寄せる波より、引く波が上回る頃合いだった。
「おはようございます、雪乃さん」
山積みの下膳から、私は笑みを咲かせた。
炊事場に顔を覗かせたのは、善次郎さんだった。
「おはようございます。宗ちゃん、明け方には熱が下がっていましたから、もう心配はいらないと思いますよ」
子供は直ぐに熱を出すが、その分回復も早い。もう連れ帰っても大丈夫な旨を伝える。
「どうぞ、様子を見に上がってください。後で、宗ちゃんの朝餉をお持ちしますね」
今は手が空かないために、私は目先だけで促した。
善次郎さんは頷いて、階を上がっていった。
温めた粥に大根葉の漬物を細かく刻んで散らす。だし巻きの横に宗太の好きな干し椎茸の含め煮を添えた膳を持って上がって、中に向けて声を掛けた。
「宗ちゃん、ご飯ですよ」
襖をそっと開けると、布団は既に上げられ、善次郎さんは膝上に宗太を抱えていた。
「おはよう、宗ちゃん。お父さんが迎えに来てくれて良かったね」
微笑む私に、善次郎さんは「それが……そうでも」と、苦く笑った。
「嫌っ!」
善次郎さんの腕から抜け出た宗太は、部屋の隅に折りたたまれた布団の隙間に潜り込む。
(あ、あれ?機嫌が悪い?)
「お熱が下がって良かったね。宗ちゃんの好きな椎茸もあるよ。食べられるかな?」
膳を文机に置いて促すも、まるで穴倉に籠る子熊ように出てこない。
「まだ、お熱あるもん。今日もユキちゃんと一緒にねんねする」
昨夜は家が恋しくなったのか、ぐずり始めてしまった宗太を、行火のように抱いて眠りについた。
「もう熱は無いからお家に帰れるよ。なっちゃんと遊べるよ」
「やっ!お熱なのっ!」
布団の中を覗き込む私を拒否して益々奥へと潜り込む。
「まだ眠いの?ご飯を食べたらまたねんねしていてもいいよ」
善次郎さんを見遣って、その了承を求めれば、彼は首を横に振る。
「そうじゃなくて、単に雪乃さんに甘えたいだけだと思います。宗太は忘れていた母親の温もりを思い出して、恋しいのでしょう」
「それは──」
寂しい気持ちは私も良く分かる。
例えその温もりを忘れてしまっても、母を亡くした心許なさだけは、きっと宗太の心にいつまでも残っているのかもしれない。
「雪乃さんはまだ忙しい時間帯でしょう。宗太のことは私が言い聞かせますので、どうぞ戻ってください」
確かに、まだ気を抜ける時間帯ではない。
「宗ちゃん、ご飯を食べたら元気な顔を見せに来てね。頑張ったご褒美を用意しておくからね」
私は後を善次郎さんにお願いして、炊事場に戻って行った。
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