23人が本棚に入れています
本棚に追加
/101ページ
炊事場に戻った私は、小鍋に砂糖、そして水を加えたものを火にかけた。
砂糖水が飴色になるまで煮詰めて火を止める。そして、熱いうちにアルミの上にスプーンで飴の雫を描いていく。冷え固まれば、べっこう飴の完成だ。
「宗ちゃんの機嫌もこれで良くなると良いのだけれど……」
そうこうするうちに作り置いた膳の全ては捌き切れた。
朝の喧噪が過ぎ去り、食堂には夜勤明けと思われる者らだけが、ゆっくりと舌鼓を打っていた。
『準備中』
下宿生の出払う日中の間は、この札が食堂の入り口に掛けられる。
そして、夕餉の時間帯になれば、『営業中』の札に差し代えられる。
「おはよう、今日も大盛況だったねぇ」
毎朝、休戦の頃合いでお出ましになるのがご隠居さんだ。
「おはようございます。お陰様ですね」
取り置いていたご隠居さんのお膳を持って出る。
そして、彼の特等席であるテレビの前に据え置いた。
「うん、今日も彩り豊かで美味しそうだ」
ほくほく顔のご隠居さんは、毎朝しっかりと私の働きを讃えてくれる。
「はい、しっかり召し上がってくださいね。私はちょっと宗ちゃんの様子を覗いてきます。もう、熱はすっかり引いて元気そうなんですが、どうも甘え足りない様子でご機嫌斜めなんです」
善次郎さんが手を焼いているといけないのでと、その場を後にしようとする私をご隠居さんは引き留めた。
(?)
私の手を取ったご隠居さんの手は、皴の深い柔らかな手だった。
以前はもっとゴツゴツとした硬い手だった筈なのにと、気付かないうちに経ていた年月に少なからず驚かされた。
「ユキちゃんあっての『ひじり荘』だ。だけどね、縛られ過ぎては駄目だよ。此処は『金の卵』がいっぱしに成長したら巣立っていくところだからね」
ゆっくりと、諭すような口調は、彼の職業病なのかもしれない。
『金の卵』――未来を期待される若者たちの総称。
「私も……そうだと?」
『ひじり荘』は、学生上がりの若者らの受け入れ口だ。やがては送り出すことになる独身寮の役割にある。けれどまさか、私も送り出される側の『金の卵』として認識されているとは思わなかった。
「勿論、そうだよ。事実として、君は優秀だし、あの時代を乗り越えて来た強者じゃないか」
『君は優秀だから――』
かつての、奉公先のご主人の言葉が脳裏に甦る。
役に立つ人間でなければ、よりよい環境を手に入れることは出来ないと懸命だった。でなければ、その後の言葉を得ることは無かっただろう。
私は高等教育を受けることを許されたのだ。
でなければ、女の、しかも孤児の私が学び舎に入ることは、きっと無かったに違いない。労働力を削ってまで、将来を期待して、学ばせようなどとは誰も考えないのが普通だ。
私はピカドンを落とした国の敷いた教育改革により、真っ当な学問を学ぶことが出来たと言える。
あれさえなければとは思う。
あんなものを作り出し、使うことを許した人間の頓着の無さに恐怖する。
あんなものを肯定する未来が来ないことを切に願っている。
けれど、米国の人間に恨みは不思議と抱かなかった。
復興には多くの支援があり、彼らは私の未来を握り潰そうとはせず、活かそうとしてくれたと私は理解していたのだ。
戦争を憎んでも、人の惨さを恨んでも、人のありがたみは知っている。
此処を巣立つ時が来ていると告げてきたご隠居さんの手を、私は知らず握りしめていた。
「すっかりジジイの手になってしまったろう?働かない手は直ぐにこの通り、力の無い手だ。ユキちゃんの手はまだまだ沢山のものを掴んでいける手だねぇ」
私の手を、ご隠居さんは赤子の背をあやすように叩いた。
「此処は皆にとっても、ユキちゃんにとっても仮宿だ。老いぼれジジイも気張りまくれば後、四~五十年くらい何とかなるかもしれないが、お婆さんになったユキちゃんはあんまり見たくないなぁ」
それはもう、何処からどうなんでしょう。
いろんな意味で私は言葉に詰まる。
「お婆さんになった雪乃さんも、きっと可愛らしいですよ」
冗談を真に受け、冗談を返したのは、いつの間に其処にいたのか善次郎さんだった。その腕にはべそを掻いた宗太を抱えている。
「ユギちゃんっ!」
伸ばされた宗太の手を取れば、宗太は私に飛び移って来た。
「宗太はすっかり甘え癖が付いてしまったようで、ほとほと困りました」
善次郎さんは少しばかり恨みがましい目を私に向けた。
それは……申し訳なく思うも、こんなに可愛らしい生き物を素気無く扱うことなど、どんな苦行だと言いたい。
「うん、これは看過できない問題だね。経過措置としてユキちゃんに雇用主として出向を命じるよ」
「しゅ、出向?」
本当に何処までが冗談ごとなのか分からない。
頭の良い天然は性質が悪い。
「それに、宗ちゃんだけじゃないよ。きっと今頃は、なっちゃんも臍を曲げているんじゃないかな?」
確かにそれは容易に想像がつく。
「で、では、べっこう飴でもお土産に持って帰ってください」
善次郎さんは首を横に振った。
「それはそれでありがたいですが、直ぐに溶けて消えてしまうそれほどに、この子達は甘くないですよ」
善次郎さんは宗太に訊ねる目を向けた。
宗太はますます私にしがみついてくる。放すまいとするその強さときたら、遠慮がまるでない。首が締まってものが言えなくなるではないか。
「うん、うん。子供は素直でいいねぇ。さぁ、善次郎君もこれでは仕事にならない。少しばかり行ってあげなさい」
ご隠居さんは腕を組んで、何故か胸を張る。
「では、丁重にお預かりします」
善次郎さんはご隠居さんに律儀なほどに頭を下げた。そして、事の成り行きに半ば唖然としている私に向き直った。
「了承は得ました。うちに来ていただけますか?」
(そ、そんな目を向けないでほしい)
何事かと妙に身構えてしまい、目を合わせることができない。
「は、はい。此処が済みましたら、直ぐに伺わせていただきますね」
ただ、子守を頼まれているだけだというのに、どうしてか声が上ずってしまう。
宗太を後から一緒に連れて行く旨を伝えて、私は先に善次郎さんを仕事に送り出すことにする。
そんな遣り取りの背後では、ご隠居さんが「今日は小春日和だねぇ」などと、含み笑いを漏らしていた。
最初のコメントを投稿しよう!