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成り行きで沢渡家に足を運んだものの、その敷居の高さに私は大いにためらいを覚えていた。
奥様が生前の頃は、どうということも無かったというのに、ここから先は安易に踏み込んではならない領域に思えて、足が止まってしまった。
善次郎さんの奥様――葵さんは、可愛らしいという言葉の似合う、柔らかい空気を纏う人だった。
『わぁ、雪乃さん、もうご飯を作り終えちゃったの?それに、お掃除まで……』
産後の肥立が悪く、寝込むことの多かった葵さんを気に掛けて、私はある提案をした。
「時給で私を雇いませんか?」
「え?」
「気心知れない他人に、おいそれと甘えることなど難しいことでしょう?遠慮はするのも、されるのも気を揉みませんか?ですからそんな気遣いの要らない雇用契約を結びませんか?」
「雇用契約?」
「雇用主と従事者です。奥様の言いつけ通りに私は手足となって家事労働をさせていただきます。とは言え、私は『ひじり荘』のご隠居さんにも雇われているので、こちらにうかがえるのは、一時間のみとなります。時給は……そうですね、二十円ではいかがでしょう?」
日雇い労働者の平均賃金は六百円足らずだというから、時給にすれば七十円程度。
破格だとは思うが小遣い稼ぎとしては妥当というところだろう。
「二十円……」
「お試し期間が必要であれば、三日の間は無償でさせていただきますよ」
仕事に向けた顔で、私はにっこり笑を見せた。
葵さんはお試し期間は必要ないと、代わりに前払いで百円札を渡してくれた。
この時代、その価値は同じでも、コインよりも札の方に格式が高い風潮にあった。
「これで三日分をお願いします。雪乃さんは働き者だと定評だもの。きっと損にはならないわ」
ご近所のよしみとして本来ならば無償でも良かったものを、多くをいただき過ぎだと気が引けたが、その分を私は働きで返すことで納得することにした。
それを機に、私は葵さんの体調が芳しくない時は沢渡家へ堂々と赴くようになる。
子守に炊事、洗濯、掃除に買い物、やることは多くあるが、時間は一時間しかない。
限られた時間を有効に使い切る為に、会話は挨拶程度に収めていた。
けれどしばらくして、葵さんから不服を申し立てられてしまう。
「雪乃さん、やっぱり雇用契約は解除させてください」
煩わしくないように、なるべく彼らの生活空間には踏み込まないよう、細心の注意払っていたのだが、それでも何らかの不興を買ったらしい。
「何か不備がありましたか?」
葵さんは首を横に振る。
「不備なんて一つも。いつもあなたの働きは完璧だわ。本当に大助かりだったもの」
ならば、何故?
訊ねて良いものか分からず、少しの間を空けたものの、私は問うことはせずに頷いた。
「お役に立てていたなら良かったです。また何かありましたら、お手伝いに参りますね。お身体をご自愛されてください」
私に出来ることはここまでなのだろうと、線を引くかのように畳に指を付いて頭を下げた。
「いえ、待って。あの、そういうことでは無いのよ」
慌てたように葵さんは私の顔を上げさせる。
「?」
「給金が絡むと雪乃さんは息つく間もないくらいに働き通しなんだもの」
それの何がそんなに不満なのか、葵さんは頬を膨らませた。
葵さんは善次郎さんの二つ下、つまり、私よりも六つ上だ。
そのせいなのか、時折、年の離れた妹を窘めるような顔を私に向けてくる。
「一時間ですからね。休憩など必要ありませんよ?賃金をいただいているのでそこは当然です」
何ら問題ないと告げるのに、葵さんは益々眉根を寄せた。
「そうね、だからこその契約解除なの」
葵さんは苦笑した。
「?」
「雪乃さんは休憩時間の合間を割いて来てくれているのでしょう?」
それはそうだが、それはこちらの都合だ。
「もう、気心知れない他人というわけでも無いもの。ここにはもっと気を抜いて、気楽に来てほしいの。私もたまにはお喋りに花を咲かせて、雪乃さんとゆっくりお茶をしたいもの」
『私の我儘ね』と、甘い花のように笑う葵さんは、愛らしく、優しい人だった。
「……」
無理だ……。
私は白旗を上げた。
あれの代わりには到底ならないだろう。
分不相応を自覚したことが返って、敷居を下げた。
単に子守りを頼まれただけだというのに、要らないことを深く考え過ぎてしまった。
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