安心感

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「ユキちゃん、早くっ!」  踏み込もうとしたり、とどまったりを繰り返している優柔不断な私の心を叱咤するかのように、宗太は手を引いた。 病み上がりであることもすっかり忘れるほどに元気いっぱいのご様子だ。 「宗ちゃん、なっちゃんを呼んで、いつもみたいに『ひじり荘』で遊ぼうよ」 出向命令を真に受けてしまったが、よく考えればそれで構わないのではないかと思い至った。  世間体を思えば、押しかけ女房のような体裁は避けた方が無難には違いない。 「()っ!」 え?駄目なの??? ここへ来てまた宗太の嫌々が発動してしまう。 「宗太の家で遊ぶのっ!!!」 「ふぅん、今日は天気が良いからリヤカーで買い出しに出かけようと思っていたけれど、宗ちゃんは乗らなくていいんだ?」 挑発すれば頷くに違いないと踏んでいたのに、宗太は乗ってはこなかった。 「……ヤダ」 どうしたことか急に元気がなくなる。 もしや、風邪をぶり返したのかと宗太の額に手を当てるも、至って平熱である。 「宗ちゃん、どうしたの?どこか痛い?」 宗太の顔を覗き込んだ。 「……ユキちゃん抱っこ」 どこも痛くは無いようだ。 「ん」 求めに応じて私が宗太を抱え上げれば、互いに頬ずりを交わすのが私たちの抱っこの基本形。 甘えん坊はいつものことだけれど、こんな風に要求してくるのは珍しかった。 ──いつもなら、何ら気兼ねすることなく猪突猛進なのに……。 今日という日の宗太は激甘だ。 「そっかぁ。今日は抱っこ日和なんだね」 まぁ、たまにはこういう日があっても悪くは無いだろう。 そう折り合いをつけた私は、ようやっと、玄関の引き戸を開けた。 流石は腕の良い建具屋さんの家だ。 カラカラと滑りの快い音が耳を擽り、戸は軽い。 「御免下さい。お預かりしていた宗ちゃんをお返しに来ましたぁ」 奥に向かって声を張る。 家にはお手伝いに来ているセキさんが居るはずだった。 「ああ、ユキさん。善ちゃんから話は聞いているから、勝手に上がってきなよ。ちょいと今は手が離せなくてねぇ」 奥の方からセキさんの声が届いた。  セキさんは善次郎さんの家のお手伝いの片手間に、奥の部屋で内職をしているのが常である。腕の良いお針子さんなのだ。 「では、遠慮なくお邪魔しますね」 履物を揃えているところで、奈津が廊下をトタトタと転がるように走って来た。 「ユキちゃん、遅い!」 飛び掛かってしがみついて来るものだから、癪に障った宗太が喚いた。 「やっ、宗太なの!」 独り占めしたいばかりのお年頃は、些細なことにもすぐに喧嘩を始める。 宗太は絶対に占領されまいとして私の首にしがみついた。 首が締まると、宗太の背をあやしながらも奈津の相手をする。 「ん、ごめんね、なっちゃん。良い子で待てるなんて、やっぱり、お姉さんだねぇ」 良い子、良い子と膝を付いて、頭を撫でるとグッと、まだまだ言い足りない不平を堪えてくれた。 「ユキちゃん、べっこう飴、ありがとう」 善次郎さんから受け取ったことを伝えてくれた。 「美味しかった?次は一緒に作ってみる?」 火傷にさえ気を付けてあげれば、子供でも上手に作れるだろう。 「うんっ!作りたい!」 女の子らしく、奈津は興味津々で顔を輝かせた。 「先にセキさんにご挨拶をしてくるね」 私は客間を遣り過ごして、奥の部屋に向かって声を掛ける。 「セキさん、ご苦労様です。今日は少しばかりお手伝いに参りました」 納期が迫っている様子で、足踏みミシンの手元から目を離せないままに、セキさんは助かったとばかりに唸った。 「ちょいと、押していてね。すまないが、子守と昼餉の準備をお願いしてもいいかい?あんた、夕餉には戻るんだろう?」 「はい、昼をすませたらこの子達を連れて、買い出しに行きますね。その後はいつも通りによろしくお願いします」 互いの役割分担の話を付けて、私は部屋を後にした。 ここへ来ることになったのは偶々だが、本当に間が良かったらしい。 あれでは片手間がどちらなのか分からないと、私は内心で小さく嘆息していた。
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