安心感

13/19
前へ
/101ページ
次へ
 それは葵が宗太を産んで、四か月ばかりが過ぎた頃だった。  『……美味いな』 いつもの食卓、有り体な献立。 俺は鯖の味噌煮を一口食べて、いつもと違うことに目を瞠っていた。 「でしょ、でしょ!?私も思ったぁ」 葵が興奮に沸く。 「思ったぁ。って何だ?葵が作ったんじゃないのか?」 「『勿論、私が作ったわよ』なんて、嘘吐きでない妻を誇ってね。それね、お隣のご隠居さんのところの雪乃さんが作ってくれたの。悔しいけれど、私の完敗ね」 「嗚呼、そう言えばうちで雇うことにしたんだっけ?」 葵は煮物に手を付け、その美味さにも目を瞠って、俺に訴えてくる。 それは分かったからと、俺も頷きで応じる。 「ん、その方がお互いに気兼ねしないで済むでしょうって、彼女から提案を受けたの。若いのにしっかりした()よねぇ」 「三日で百円だったか?」 大した金額ではないし、彼女は医者の助手をしていたのだから、葵の身体のことも気に掛けてくれるだろうと、俺としては安心だった。 「そうなの。最初はちょっとしたお掃除とか、買い物とかをお願いするつもりでいたのに、どんどん仕事をこなしていくから仕事がなくなっちゃって、今日は『夕餉をお作りしましょうか?』って、ことに……」 「へぇ……凄いな。一時間なんだろ?」 葵は確と頷き、眉根を寄せた。 「雪乃さん、ちっとも休まないし、手を抜かないし、話す間も惜しむほど怒涛の如く働くの!」 「……え?」 ちょっと、よく分からない。  彼女を雇ってからというもの、滞りがちだった家の中は整然と片付けられ、すこぶる綺麗に磨かれていることには気付いていた。奈津の面倒もよく見てくれているようで、体調を崩しやすい葵に代わって、外で遊んでくれていることも知っている。 だからこそ、葵の言いたいことが俺には分からない。 「それの何が悪いんだ?」 それこそこちらは給金を払っているのだ、手を抜かれるよりはずっと良い。 嗚呼、彼女の言うことは正しいと、俺は内心で納得に頷いた。 雇用関係だと思えば、何の気兼ねもいらない。それどころか、こちらは横柄なまでに頼ることが出来る。 「ちっとも悪くないわよ!」 憤慨する葵がますます意味不明だ。 「……構ってほしいのか?」 出産をしてからというもの、葵は家に籠ってばかりだ。話し相手が欲しいのかもしれない。 「そうだけど、違いますっ!」 「?」 「お喋りして、のんびりお茶でもしたいのは山々だけれど、雪乃さんは、私に不利益にならないようにって、そればかりで必死なの。噂に違わぬ頑張り屋さんなのね」 葵は寂しそうに、そして少しばかり悔しそうに顔を歪めた。 葵は妹を病気で亡くしていた。 葵の両親――父親を戦争で亡くし、母親は後に再婚を果たしていた。 連れ子の葵と妹はそこでは随分と肩身の狭い思いをしていたようで、葵は中学を出るや直ぐに働き始め、いづれは妹を呼び寄せ二人で暮らしていこうとしていた矢先のことだったという。 妹はあっさりと流行り病で逝ってしまう。 葵の今の顔が、姉想いの優しい子だったと、俺に話していた時の顔と重なった。 そんな葵が愛おしくて、年甲斐もなくうっかり頭を撫でてしまう。 「善さん……。善さんは、私に甘々ですね」 葵は、はにかみながらも俺を睨んで見せる。子ども扱いしていると言いたいようだ。 「まぁ、俺の奥さんだから」 「私は善さんが夫で、すこぶる幸せです。だからと言って、それに甘んじてしまって、他人の好意をさも当然のように受け止めたくありません」 甘んじてしまった俺には葵の言いたいことが良く分かった。 「そうだな。雪乃さんを雇うことはやめてもいいよ。でも、葵が身体を休めて、復帰できることが何よりも最優先だ。無理をせず、ちゃんと俺にも、彼女にも頼ってくれるか?」 他人に頼ることは簡単そうで難しいものだ。 「はい。私、善さんにも雪乃さんにも甘える極意を伝授する気持ちで頼ります」 そんな可笑しな宣誓をしながら葵は微笑んでいた。
/101ページ

最初のコメントを投稿しよう!

23人が本棚に入れています
本棚に追加